2024.4.21 復活節第4主日礼拝
詩編 第16篇1~11節
ヨハネの手紙一 第3章1~2節
ヨハネによる福音書 第10章11~21節
                          

「わたしは良い羊飼いである」

 本日は、「ヨハネによる福音書」を中心にみ言葉に聴いてまいりましょう。

 本日の聖書箇所の最初にある10章11節で「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。」とわたしたちの救い主イエス・キリストはおっしゃいます。羊という動物はイエス様がいらっしゃった当時そして今も、イスラエル、パレスチナ、そして中東の世界においては、人々の生活にとって最も身近な動物です。羊というのは、とても弱い動物で、一匹では生きていくことはできず、いつも群れで生きている動物です。群れからはぐれてしまうと、オオカミやその他の野獣に襲われてしまう。水場や、草の生えているところを群れで移動する。その群れの羊を導き守るのは羊飼いの務めです。この羊と羊飼いというのは、深い信頼関係によって結ばれているのです。羊飼いは羊一匹一匹をとても大切にしています。その一匹一匹に名前をつけて呼ぶ。名前を呼ばれた羊は羊飼いの近くに寄っていく。両者は寝食をともにするほどにお互い信頼関係にある間柄なのです。

 本日のところで、主イエスが「わたしは羊飼いである」とおっしゃいます。どういう意味で主イエスがご自分を羊飼いであるとおっしゃったのでしょうか。それは、羊のために命を捨てる羊飼いだということです。「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる」。主イエスは、羊である人間のために命を捨てると宣言される。どのようにして良い羊飼いであられる主イエスが命を捨てられたのか。それは、十字架において、全く罪のないお方であられるイエス・キリストが、わたしたちが想像もできないほどの苦しみを味わわれて、十字架で死なれるという、まさにそのことを指しているのです。それではどうしてイエス・キリストがそのようになさったのでしょうか。14節から15節に「わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである。」とあります。「ヨハネによる福音書」においては、この「知る」という言葉は特別な意味で使われています。「知る」ということは、その人を愛している、大切に思っているという意味で使われています。イエス・キリストがわたしたちのために十字架にかかって死なれる。わたしたちの罪を償ってくださるために、十字架にかかって死んでくださる。わたしたちがそうしていただける資格は全くないにもかかわらず、イエス・キリストは十字架にかかってくださった。そこまでしてくださったのは、天の父なる神様と独り子なるお方であられるイエス・キリストとの深い信頼関係があったからだ、とここでイエス様は語っておられるのです。父なる神様と子なる神様であるイエス・キリストとの間の深い人間関係に基づいて注がれる、父なる神様の主イエスに対する深い愛、その愛にお応えして、主イエスはご自分の命を捨ててくださったのです。羊であるわたしたち人類のすべては、天の父なる神様が造ってくださり、愛してくださっている存在です。そしてこの羊が、羊飼いのものだ、わたしのものだと思うからこそ、命を捨てることができると主はおっしゃるのです。それが天の父なる神様の御心です。それは父なる神様の深い愛に基づいたことです。神様と主イエスとの深い信頼関係があるからこそ、主はそういう深い愛のみ業をなさることができたのです。わたしたちは、そうされる資格が全くないにもかかわらず、イエス・キリストがわたしたちの罪の赦しのために、救いのために十字架にかかって死んでくださいました。主は、良い羊飼いとして命を捨ててくださいました。それでは、わたしたちをそのように深く愛してくださっている主イエスの愛にわたしたちはどうお応えすればよいのでしょうか。もちろん、その深い愛に完全にお応えすることなど、わたしたちには到底できません。しかし、少しでもわたしたちがその愛にお応えして行こうとすることはできます。それはどうすることでしょうか。それは、聖書で語られている御言葉にお従いしてこと、主の御跡に従っていくということです。そのことが、主イエスが与えてくださった無償の愛に応えていく道なのです。

 天の父なる神と御子イエス・キリストとの間の深い信頼関係に基づいて、主イエスがわたしたちを深く愛してくださったということ、そのことに基づいて、わたしたちもまた、その応答として、み言葉に従っていく、主の愛にお応えしていくということが何よりも大切なのです。「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。」先ほどから申しておりますが、それは父なる神様と子なる神様であられるイエス・キリストとの間の深い信頼関係に基づいてしてくださったことなのです。わたしたちが十字架という無条件の愛を注がれているということを心に留めるときに、わたしたちもまたその愛に少しでもお応えしていくことが、主との信頼関係を大切にして生きていくということになるのです。例えば、わたしたちがだれかから本当にありがたいことをしてもらったときに、わたしたちはお返しをしようと思います。わたしたちはしてもらったらそのままにしておくということは普通はないと思います。そのしていただいた恩義が大きければ大きいほど、わたしたちは本当に感謝して、何らかのお返しをしていく。そういうことで、この社会の人間関係は成り立っています。わたしたちは神様からの無償の、無条件の深い愛を、わたしたちが受け止めるときに、わたしたちもまたその神様の愛にできる限り応えていきたいと思います。そのことで神様との信頼関係が深まっていくということなのです。それがすなわち神への信仰をもって生きるということなのです。

 わたしたちがそのようにして、神との信頼関係に生きること、すなわち神への信仰によって生きることによって、神の恵みを確かなものとして受け止めることができる者になれるように祈り求めてまいりましょう。

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