2023.10.29 聖霊降臨節第23主日礼拝
                           詩編 第34篇2~23節
ルカによる福音書 第12章22~34節
                          

「尽きることのない富」

《秋の伝道集会 宗教改革記念礼拝》

きょう皆さんと聴いてまいります聖書の箇所ですが、弟子たちに向かって、主イエスが教えを述べられます。「思い悩むな」と主イエスはおっしゃいます。「命のことで何を食べようか、体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切だ。烏のことを考えてみなさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、納屋も倉も持たない。だが、神は烏を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりもどれほど価値があることか。あなたがたのうちのだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか。」空を飛ぶ烏は、「種も蒔かず、刈り入れもせず、納屋も蔵も持たない」。この烏というのは、当時は汚れた鳥だと考えられておりました。生きる価値もないような存在だと考えられていたのですが、そういう存在でも神様は養っていてくださるのだ、そして野の花を見よと主イエスはおっしゃるのです。その花の美しさは、神様がつくりだしてくださったものである、その花自身が自分の美しさをつくり出したものではない、神様が備えてくださっている、そのことに目を向けなさい、と主イエスはおっしゃるのです。空の鳥や野に咲く花は、自分たちの努力で、そのように自分たちを養い、自分たちの美しさを装うということをしているわけではないし、そんなことはできることではありません。それができるのは、神様しかおられない。自分を養ったり、自分の美しさを装うために、あくせく努力しなくても、神様が鳥や花にそういうことをしてくださっている、ましてや、烏や鳥や花よりも優れたあなたがたには、もっと良いことをしてくださるはずではないか、だから思い悩むなと主イエスはおっしゃるのです。しかし、わたしたちは日々、ついつい思い悩んでしまいます。思い患ってしまう。それはなぜなのでしょうか。それは、わたしたちは、いつの間にか神様の恵みに生かされているということを忘れてしまって、神様に養われているということを忘れて、自分の力だけで何とか生きている、そのように知らず知らずのうちに考えて、思い悩んでしまっているのです。なんだかんだ言っても、この世を生きるために必要なのは、自分の力だと、自分のお金や財産だと、自分を助けてくれる親しい友人だと、わたしたちは考えてこの世の中を生きようとしています。目に見えない神様の救いよりも、現実に目に見える力、お金、財産、わたしたちの能力、そういったものにより頼んで、うまくいかずに悲観して、不安になって、思い悩む日々を送っているのが、わたしたちの現実の姿なのではないでしょうか。わたしたちは、目に見えることばかりに目がいってしまう。自分の手の中にあるものだけを見てしまう。そうであるならば、わたしたちにいつも不安がつきまとうのは、当たり前のことです。この世では「やっぱり結局、この世はお金ではないか」と思う人が、たくさんいることでしょうけれども、しかし、わたしたちがどんなに多くの財産を蓄えたとしても、いつまでもそれがなくならないという保証は一切ありません。わたしたちはそういうものに頼ってしまう本当に弱い者たちですが、主イエスはそういうわたしたちの弱さをよくご存知であられます。空の鳥、野に咲く花を見なさいとわたしたちに語りかけておられます。「何を食べようか、何を飲もうかと考えてはならない。また、思い悩むな。それは世の異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの父は、これらのものがあなたがたに必要なことをご存知である。ただ、神の国を求めなさい。そうすれば、これらのものは加えて与えられる。」と主イエスはおっしゃいます。何を食べようか、何を着ようか。そのことで思い悩む、それは自分たちだけの力で、この世を何とか生きようとする思いです。それは異邦人のすることだと主はおっしゃいます。異邦人というのは、まことの神を信じないで生きる人たち、イスラエルの神の民以外の民を代表しています。そのような異邦人のようにならないで、あなたがたは神の国を求めなさい、と主イエスはおっしゃるのです。神の国とはなんでしょうか。神の国とは、聖書では度々出てくる大切な言葉です。神のご支配ということです。神が恵みを持ってこの世を支配しておられる、そしてわたしたちを救ってくださる、神様の恵みのご支配に全てを委ねて、神の救いを求めなさいと主イエスはおっしゃるのです。何よりもまず、神の救いを、神の恵みのご支配を求めなさい。自分の弱い力により頼むのではなくて、神様に全てをお委ねして、神様を信頼して歩みなさい。そうすれば、着るものや食べるものは、それらに添えて与えられるのだと主イエスはおっしゃるのです。わたしたちが全てを神様に委ねて、神様に信頼しつつ、神に祈り求めていく。それが、信仰ということです。この聖書箇所では、そのことが、天に宝を、天に富を積むということを意味するのです。わたしたちがこの地上で富を持つ、宝を増やす、そのことは大切なことです。そのことを主イエスは否定されてはおられません。金持ちでいることを駄目だと言っておられるのではない。しかし、わたしたちは弱い者たちであるがゆえに、その自分が蓄えた、この地上の富により頼んでしまう。神様をないがしろにして、神様を脇にどけて、その蓄えた財産を拝んでしまうのです。しかし、そうすることよりもむしろ、神様に信頼して、神様により頼んで神に委ねて、神様を信じて生きていく、そのことが、天に富を積むことだと主イエスはおっしゃっているのです。それは、盗人も近寄らず、虫も食い荒さない、永遠に尽きることのない富だとおっしゃるのです。

 わたしたちは、自分たちの力、自分たちの持っているものにより頼むのではなく、まず神の国を求めて生きることによって、わたしたちが日々、日常生活において必要とするものがそれに添えて与えられるということ、そのことに信頼して、神様を信じて歩むことによって、思い悩むことから解放されて歩みたいと思います。それこそが神に救われて生きる道なのです。そのことを信じて生きることができるように祈り求めてまいしましょう。

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