2023.10.15 聖霊降臨節第21主日礼拝
イザヤ書 第25章6~10a節
フィリピの信徒への手紙 第4章12~14節
マタイによる福音書 第22章1~14節
                          

「祝宴への招き」

 本日は「マタイによる福音書」を中心に御言葉に聴いてまいりましょう。

 ある王に王子がいてその王子の盛大な婚宴に多くの人たちが招かれていました。その王は婚宴に招いていた人たちを、家来たちを使って招いたわけですが、しかし招かれていた人々が、来ようとはしなかったとあります。ここで王のことは何に例えられているかというと、ここは神様のことでしょう。神様の招きです。ここでその招きに応えなかった者たちがいたというのです。本日のこの例えを見ますと、王は「家来たちに言った。『婚宴の用意ができているが、招いておいた人々はふさわしくなかった。だから、町の大通りに出て、見かけた者はだれでも婚宴に連れてきなさい。』」と言いました。「そこで、家来たちは通りに出て行き、見かけた人は善人も悪人も皆集めて来たので、婚宴は客でいっぱいになった。」とあります。婚宴は客でいっぱいになる。この会堂も神様の招きに応える人たちで、いっぱいになってほしいと思うのですが、ここでは通りに出ていって見かけた人は誰かれかまわず皆、集められたとあります。このこともわたしたちのことと関連するのではないでしょうか。わたしたちはかつては、この神様のことを知らず、礼拝のことも知らずに生きてきた者たちです。たまたま誰かの誘いによるなどして、礼拝に出るようになった。わたしたちが招かれるにふさわしい者では全くなかったにもかかわらず、神様の招きによって、わたしたちは礼拝に出るために、教会の門をくぐったのです。それは神様のお招きです。その神様の招きに応えてわたしたちは礼拝に守るようになっています。これこそまさに、わたしたちにとっての恵みということではないでしょうか。

 そして11~12節ですが、「王が客を見ようと入って来ると、婚礼の礼服を着ていないものが一人いた。」「『友よ、どうして礼服を着ないでここに入って来たのか』と言った。」とあります。ここでこの「礼服」というのは何を意味しているのでしょうか。ここで礼服として象徴的に表されているのは、神様を敬い、その神様のありがたい招き、その招きに感謝して生きる、その神様の招きを大切にして生きるということなのです。ただ当たり前のようにして、結婚式の祝宴に出るということは誰でもできるわけですが、そういう祝宴を用意してくださって、わざわざわたしたちを招いてくださる、その喜ばしい神様の祝宴に招かれること、それは当たり前のことではありません。わたしたちを選んで招いてくださって、神の民に加えていってくださる。そういうことを当たり前のことではなく、わたしたちは本当に深く感謝しなければならないことなのです。ときにはわたしたちは、そのような神様の招きをないがしろにしてしまう。招いてくださる神様を敬い、その招いていってくださることに深く感謝して、そのことを大切にして歩む。そのことを象徴的に表しているのがこの礼服ということなのです。わたしたちは人生において様々な人と交わりを持って生きます。ある人がわたしたちに良いことをしてくれたら、わたしたちは本当にそのことに対して感謝して、何とかお返しをしようと思う。しかし、そのしてくれたことに、いちいちお返しをしていたらば、貸し借りの世界になってしまう。それは杓子定規になってしまって、何か不自然な感じがするものです。そこまでしなくても、お返しができなくても、ある人が何か良いことをしてくれたらば、わたしたちはそのことに感謝する。そしてその人にいつかお返しをしてあげたいと思うのですけれども、そうしたわたしたちが何かをしてもらったら、わたしたちも何らかの形でお返しする。その場ですぐお返しできなくても、あとでそういうやり取りをする。そういうことが良き交わりということなのです。それは隣人を愛するということでもあります。そうやって、わたしたちは日常生活においてよい人間関係をつくっていきます。わたしたちの神様との関係も、そういうことではないでしょうか。わたしたちは神様にいろいろなことをしていただく、恵みいただきますが、しかし、わたしたちは自分たちの力では、自分たちの乏しい力では、神様からしていただいたことに対して応分のお返しするなどということは、全くできないわけです。わたしたちの罪の赦しのために、愛する御子を十字架にかけられるという犠牲、それはわたしたちにとっては、途方もないことですから、その神様の恵みにお返しをするなどということは、全くできないことなのです。しかし、わたしたちはその神様の愛、恵みに感謝することはできます。そしてその神様がからいただいた愛、それを大切にしてい生きていくことができる。神様の愛になんとか応えようとして生きていくことはできます。何かをしてもらったから、その分返すという取引のことではなくて、わたしたちがその神様の愛に感謝することができれば、自然にわたしたちはその愛に応えて、生きていくようになるはずなのです。それがわたしたちが神様を愛するということなのではないでしょうか。神様を敬い、神様を信じ、神様の愛に応えて生きるということ、神様の祝宴に招かれたという、その大きな恵みに感謝して生きていく。強制ではなくて、義務ではなくて、わたしたちは神様のために働くことができる。それが、神様のぶどう園で働くということなのです。そのことを神様は求めておられるのです。礼服を着ないで婚宴の席に行く。そのことによって、神様の恵みを失ってしまう。そのようにわたしたちは、そういう状況に陥ってしまいかねないのです。神様の婚宴に招かれる。この祝宴に招かれる資格は、わたしたちには一切ないにもかかわらず、神様は恵みとしてわたしたちを祝宴に招いていてくださいます。わたしたちは、そのことに心からの喜びをもって感謝して、感謝の気持ちを大切にして、神様を敬い、神様のために働くことができるように祈って行きたいのです。

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