2023.10.8 聖霊降臨節第20主日礼拝
イザヤ書 第5章1~7節
フィリピの信徒への手紙 第4章6~9節
マタイによる福音書 第21章33~46節
                          

「神の恵みのさばき」

 本日の聖書の箇所には、主イエスがお語りになった一つのたとえ話が記されてあります。このたとえ話が語られた相手は誰でしょうか。これが23節からの続きであることからすればそれは、エルサレム神殿の祭司長や民の長老たちです。しかし本日の箇所の45節には、「祭司長たちやファリサイ派の人々」とあります。いずれにしてもこの人々は、ユダヤ人たちの指導者であり、エルサレム神殿の祭儀を司っている人々です。

 33節に「ある家の主人がぶどう園を作り、垣を巡らし、その中に搾り場を掘り、見張りのやぐらを立て、これを農夫たちに貸して旅に出た」とあります。主人は、これらの設備を全て整えた上で、それを農夫たちに貸して旅に出たのです。この主人が神様、ぶどう園はイスラエルの民、そして農夫たちが、その指導者である祭司長、長老、ファリサイ派の人々のことだと言えるでしょう。

 ここで主人が全ての設備を整えて農夫たちにぶどう園を貸し与えている、それはそのまま、わたしたちの人生にあてはまります。わたしたちは、自分の人生を自分の能力と努力で築き上げていると思っているかもしれません。しかしわたしたちの人生において、わたしたちの能力や努力の占める割合というのはそんなに大きくはないのです。わたしたちはそれぞれ生まれた時に与えられたいろいろな条件の下で生きています。自分の体がそもそもそうです。どのような体をもって生きるか、男であるか女であるか、健康で頑強な体か、病弱な体か、あるいは生まれつきの障がいがある場合もあります。それらの条件を、わたしたちは自分で決めることはできません。それは全て神様から与えられたものです。その条件の中でわたしたちは生きているのです。そもそも私たちの命そのものが、自分で得たものではない、神様から与えられたものなのです。

 このことをわたしたちの人生にあてはめて言うならば、わたしたちは、自分の人生は自分のものだ、誰の指図も受けずに自分の思い通りに生きるのだ、そこで得られたものは全て自分が自由にするのだ、と思っているのです。それがこの農夫たちの姿です。だとすればこれは、わたしたち一人一人の姿であると言わなければならないのです。

 このたとえ話は、この農夫たちのところに、主人が、つまり神様が、その息子を遣わしたことを語っています。わたしたちのところに、神様はその独り子を遣わされたのです。しかしそうであるなら、神様の独り子主イエスは何のために遣わされたのでしょうか。それは神様がわたしたちに、あなたがたの命は、人生は、わたしが与え、整えたものだ、そのことを覚え、わたしをあなたがたの主人として受け入れよ、ということを告げるためです。神様は、私たちが神様を神様として信じ、敬うことを求めておられるのです。また神様がわたしたちに求めておられるのは、その独り子イエス・キリストを敬うことです。この主人は、「わたしの息子なら敬ってくれるだろう」と言っているのであって、「わたしの息子になら収穫を渡してくれるだろう」と言っているのではないことに注目したいのです。主人にとって問題なのは、収穫の分け前ではありません。農夫たちが自分を主人と認め、息子を敬ってくれることを求めているのです。神様がわたしたちに求めておられるのも、おカネや物ではありません。わたしたちが神様を、自分に命と人生を与えてくださった方として信じ、感謝し、その独り子イエス・キリストを敬うことです。造り主なる神様と、造られたものであるわたしたちの間に、そういう正しい関係が結ばれることをこそ、神様は求めておられるのです。

 しかし現実にわたしたちがしていることは、このたとえ話のように、わたしたちがこのぶどう園を、つまり自分の命と人生を、自分のものにしようとすることであり、そのために、神様が遣わされた独り子を拒み、信じて敬うことなく抹殺してしまうことなのではないでしょうか。祭司長、長老たち、ファリサイ派の人々が、主イエスを十字架につけていったのと同じことを、わたしたちもしているのです。

 この農夫たちに対して、主人はどうするだろうか、と主イエスは彼らに問いました。そんなやつらはひどい目に遭わされて殺されるべきだ、と彼らは答えました。そうなのです。そのようにひどい、極悪非道なことを彼らは、そしてわたしたちはしているのです。わたしたちは、世の常識からするなら、ひどい目に遭わされて殺されなければならない者なのです。けれども、神様はそうはなさいません。その神様の思いはどこにあったのでしょうか。それは、この主人が、この農夫たちのもとに自分の息子を遣わしたということに示されています。すでに何人もの僕たちが殺されているのです。彼らが主人を主人として敬っていないこと、当然の取り分を渡す気がないことは明らかです。そんなところに大切な息子を遣わすなんて、わたしたちなら絶対にしないでしょう。ところがこの主人は、殺されることが目に見えていながら、大切な息子を遣わすのです。そのように神様は、その独り子を、罪人であるわたしたちのもとに遣わしてくださったのです。わたしたちが、そう簡単に自分の人生を神様に明け渡して、神様を信じ敬うものとなるはずがないことは目に見えているのに、むしろ主イエスを拒み、抹殺し、十字架につけてしまうことは明らかなのに、そのわたしたちの真ん中に、独り子を、十字架という最も残酷な刑罰を与えるために遣わしてくださったのです。本来ならばさばかれて刑罰を受けるのはわたしたちのほうであったのに、そのさばきは神の独り子の上にすでに降されていたのです。そこに神様のみ心があったのです。

 わたしたちは主イエスを信じていると言いながら、その主イエスを拒み、自分の人生の主人が神様であることを拒み、主イエスを繰り返し十字架にかけ続けている者です。しかし神様の独り子であられる主イエスが、そのことをあえてご自分の身に引き受け、十字架の死を引き受けてくださったことによって、わたしたちの罪が赦される道が開かれたのです。そのことにひたすら感謝して歩める者となれるように祈り求めてまいりましょう。

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