2023.10.1 聖霊降臨節第19主日礼拝
エゼキエル書 第18章25~28節
フィリピの信徒への手紙 第2章1~11節
マタイによる福音書 第21章28~32節
                          

「後で考え直す」

 本日は、「マタイによる福音書」を中心にみ言葉に聴いてまいりましょう。

 きょうの聖書の箇所はたとえ話です。主イエス・キリストは誰に向かってこのたとえ話を語っておられるのでしょうか。このたとえ話が祭司長や民の長老たちに向かって話されたということを、わたしたちはまず押さえておかなければなりません。ある人に二人の息子がいて、まず兄の方に向かって父が「今日、ぶどう園へ行って働きなさい。」と言ったとあります。兄は最初「いやです」と答えたのですが、「後で考え直して」、そのぶどう園に出かけていったのです。この父が、その息子の兄のほうに断られたので、弟にも向かって、ぶどう園に行って働きなさいと言ったところ弟は、『お父さん、承知しました』と答えたのですが、彼は「出かけなかった。」いうことなのです。この二人のうちどちらが父親の望み通りにしたかということですが、当然これは誰が見ても、兄の方だという答えになるわけです。そこで、このたとえ話の大切な中心部分ですが、「徴税人や娼婦たちの方が、あなたたちより先に神の国に入るだろう。なぜなら、ヨハネが来て義の道を示したのに、あなたたちは彼を信ぜず、徴税人や娼婦たちは信じたからだ。あなたたちはそれを見ても、後で考え直して彼を信じようとしなかった。」とあります。「徴税人や娼婦たちの方が、あなたたちより先に神の国に先に入るだろう」と主はおっしゃいます。「神の国」というのは、聖書で大切な言葉です。神の国、直訳しますと、神の御支配ということです。これは「神の救い」と言い換えてもよい。徴税人や娼婦たちは先に神の国に入る、神の救いにあずかるであろうということなのです。「ヨハネが来て義の道を示したのに、あなたたちは彼を信ぜず、徴税人や娼婦たちは信じた」とあります。ヨハネといいますのは、洗礼者ヨハネと言われている人で、イエス・キリストが、伝道の旅を始められる前に、まずヨハネがやってきて、民衆に「悔い改めよ」と神の教えを宣べ伝え、そして、その悔い改めのしるしとして、洗礼を授けるということをしていました。神の教えを、彼は多くの民衆に宣べ伝えていたのです。その教えを聴いて、悔い改めた人たちが、ヨハネの許で洗礼を受け、その人たちが心を入れ替えて、神の方に向き直って、生きるようになる。その具体的なしるしが洗礼ということなのです。神の教えをヨハネから聴いて、今までの生き方を改めて洗礼を受けた、悔い改めた人たちが、徴税人や娼婦たちであったということです。一方、神の教えを聴いたにもかかわらず、自分の考えを、自分の生き方を変えることなく、頑なにそれを守って、ヨハネに耳を傾けようとしなかったのはあなたたち祭司長や長老たちであると主は指摘なさったのです。徴税人や娼婦たちは、その当時大変に罪深い人たちであると言われておりました。徴税人という人たちは、当時ユダヤを支配しておりましたローマ帝国から委託を受けて、ローマ帝国のために税金を集めていた人たちです。徴税人たちは、決まった額以上の税金を取りたてることによってその利ざやを稼いでおりました。彼らは規定以上の税金をたくさんできるだけ多く取ることによって、利ざやを稼ぎ、私腹を増やしていた人たちでした。また娼婦は、神の戒めに全く反していた人たちでした。そのために、このような人たちは、この世で、この世界で、社会で大変に罪深い人たちであると言われて忌み嫌われていたのです。彼らは自分たちは罪深い生き方をしていると、後ろめたさの中で生きていたことでしょう。しかしその人たちは、ヨハネが示す義の道、神の救いの教えを聴いて、自分たちの生き方を改めて、神の方に向き直って、悔い改めて洗礼を受けて生き始める、新しい人生を歩み始めたということなのです。しかし一方、この祭司長たちはそれを見ても自分たちの生き方、考え方を変えることはしなかったのです。その彼らに対して、あなたたちより先に徴税人や娼婦たちの方が、先に神の国に入るであろう、神の救いにあずかるであろうとはっきりとこのたとえを通して、イエス・キリストはおっしゃるのです。ここでわたしたちが本日聴いています聖書の箇所で、ポイントとして捉えなければならないことは、本日の説教の題にもいたしましたが、「後で考え直して」という言葉です。この言葉は、直訳しますと、悔い改める、後悔するという意味があります。神様の方を向かないでいままで生きてきたその人が、神様の方に向き直って神の教えに従って生きるようになる、そのことを聖書では「悔い改める」といいます。この悔い改めという言葉の元々の意味は、「方向転換」するという意味です。それとともに、自分の今までしでかしてきたことを後悔するという意味があります。この兄はぶどう園で働きなさいと父に言われて、そのときには従わなかったけれども「後で考え直して」ぶどう園に行きました。弟は「行きます」と言ったけれども結局は行きませんでした。わたしたちは、どうでしょうか。わたしたちは神を信じていると言いながら、神の教えに背き、神を拝むのではなく、自分の欲望を拝むというまさに偶像崇拝の罪を犯すことが多くあります。悔い改めるということについては、祭司長たちや民の長老たちと同じように頑なに自分の考えに固執してしまっていることが多いのではないでしょうか。それではわたしたちはどうすればよいのでしょうか。深く感謝すべきことに、そのように神に背くわたしたちが悔い改めて神の国に入れるように、新しく生まれ変わって生きられるように、天の父なる神様は愛する御子イエス・キリストをこの世にお遣わしになり、十字架にかけられたのです。わたしたちの頑なな心を変えるため、わたしたちに新しい生き方をお与えになるために神はそれほどまでに大きな犠牲を払われたのです。わたしたちはそのことに深く感謝して、たびごとに神様に向き直って、悔い改めて新しく生き始めることができるように祈り求めていかなければなりません。しかし、そのことはわたしたちが本当の喜びをもってこの人生を生きられる道なのです。それはまさに神様のぶどう園で働くことであり、それがわたしたちの本当の救いの道なのです。

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