2023.9.24 聖霊降臨節第18主日礼拝
イザヤ書 第55章6~9節
フィリピの信徒への手紙 第1章21~30節
マタイによる福音書 第20章1~16節
                          

「天国の賃金」

本日は「マタイによる福音書」を中心にみ言葉に聴いてまいりましょう。

 本日の聖書の箇所は、ぶどう園を経営しているある主人が労働者を雇うというお話です。この主人は労働者を雇うために朝早くおそらく6時頃に広場に出ていきました。広場にいた人たちと一日一デナリオンの賃金の約束をして、朝の6時から夕方6時まで働く約束をしたということです。一デナリオンとは、当時の労働者の一日における平均賃金でした。人が足りなかったのでしょう。主人は9時、12時、3時に行って労働者を雇います。そしてさらに、5時頃また行ってみるとまだ人々がいました。「『なぜ何もしないで一日中ここに立っているのか』と尋ねると、彼らは『誰も雇ってくれないのです』と言った。」6時までの仕事なのですが、その一時間前に行って労働者を雇いました。なぜ5時頃に行っても人がいたのかというと、雇ってもらえないからそこにいたということなのです。その詳しい事情についてはここには記されておりません。おそらく、他の雇い主にとってはその5時に広場にいた人たちは労働力として魅力がなかった、価値がなかったと見なされたのでしょう。体が弱そうだったりとか、年を取りすぎていたというような理由で彼らは働きたくても雇ってもらえなかったということなのです。そのぶどう園の主人はそういう人たちも雇った上で、6時になって、その日の賃金を払うことになります。その最後に雇われた人、5時頃に雇われた人が来て一デナリオンずつその人たちは受け取ったということなのです。彼は一時間しか働いていないにもかかわらず、一デナリオンの賃金を受け取りました。これは朝から来た人たちと比べても明らかに不公平な扱いだということです。彼らが不平を言うのはもっともなことです。こんな扱いをされたら、大抵の人は怒ります。今なら労働基準監督署に訴えられたかもしれません。しかし、そのような不平を言う人たちの一人に対して主人は答えました。13節に「友よ、あなたに不当なことはしていない。あなたはわたしと一デナリオンの約束をしたではないか。」とあります。それはそれでもっともなことなのですが、しかし不公平であることには変わりはないのです。  ここでわたしたちが注意しなければならないのは、このたとえ話が述べているのは、天の国がたとえられているということです。天の国はこのようなものだということなのです。世の中には、健康で若くてバリバリ働ける人もいますが、働きたくても働けない人たちがたくさんいます。体に弱さを覚えていたり、いろんな病、肉体的あるいは精神的な病にかかって働くことができない人たちもいるのです。しかしその人たちもまた生活をしていかなければならない。食べていかなければなりません。その中でこの主人は、働きたくとも雇ってもらえない人たちを雇い入れて、たとえ一時間の労働しかしていなくても、一日分の給料を与えました。その5時まで雇ってもらえなかった人たちは家族もいたことでしょう。家に帰れば子供たちもいたかもしれません。彼らは、一日一デナリオンの賃金ををもらうことによって、家族とともに生きていくことができたのです。合理性ということで言えば、一日働いた人に一デナリオン、一時間しか働けない人はその十二分の一というようなことになってしまう。それがこの世の合理性ということです。能力のある人、働ける人はその頑張りに応じて、その応分の賃金が与えられる。頑張れば頑張っただけの報酬が与えられますが、頑張れない人には報酬が与えられない。しかし、頑張りたくても、頑張れない人もいるのです。この主人は、働きたくても働けない人に対しても、一デナリオンの賃金を与えました。この世の物差しでは、働いた分だけもらえる。だから頑張ろう。働けない者が賃金がもらえないのは当たり前だということなのですが、神様の物差しはそうではありません。天の国の賃金は、働けない人にも等しく同じ分だけ与えられる賃金なのです。それは神様がなさることです。14節に「わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。」とあります。

 神様はこの世の合理性や、成果主義、業績主義ということと全く反対の物差しで、わたしたちを見ていてくださいます。それは神様の憐れみということです。神様の憐れみというのは、わたしたちがどれだけ働いたか、どれだけ良い行いをしたかによって与えられるということではありません。わたしたちがどれだけ働けるかということに関わりなく、全ての人に恵みが与えられる。それが神様の救いということなのです。

 さいきん世の中では、頑張った者がそれだけの報酬を得るのは当然であるが、頑張れない者はこの世では邪魔者だと、社会保障の給付はそういう生産性のない者には与える必要はないのではないかというようなことを公然と主張する人まで出てきております。本当に悲しむべき風潮です。最近は自己中心的な考え方が社会に大きく広まりつつあるように思えます。

 神の国の賃金とは、教会で働けない人にも、たくさん奉仕をすることができない人にも、神の救いが等しく恵みとして与えられるということなのです。それが4節ある「ふさわしい賃金」なのです。これが神様の憐れみということです。その憐れみの極地が、イエス・キリストの御受難と十字架に表されています。わたしたちがどんなに罪深い者でも、正しいことを行えない、神様への奉仕ができない、そういう者であっても、神様はわたしたちに罪の赦しを与えてくださる。それはイエス・キリストの十字架というあまりにも大きな犠牲の上に、わたしたちに与えられている神の救いということです。主の十字架によって、十字架の犠牲によってわたしたちに罪の赦し、神の救いが与えられているのだということ、それこそが天の国なのです。そのように、わたしたちがどれだけ働けるかということではなくて、そういうこととは関わりなく、恵みとしてわたしたちに神の救い、罪の赦しが与えられている、それこそが天の国の救いです。憐れみ深い神様の愛にお応えして、天の国の救いを求めて主の御後に従っていくことができるように祈り求めてまいりましょう。

  閉じる