2023.9.17 聖霊降臨節第17主日礼拝
創世記 第50章15~21節
ローマの信徒への手紙 第14章7~9節
マタイによる福音書 第18章21~35節
                          

「赦し合う者として」

 本日は、「マタイによる福音書」を中心に言葉に聴いて参りましょう。

本日聴いてまいります聖書の箇所で弟子のペトロが、主イエスのところにやってまいりまして、21節にありますように「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか」と質問をいたします。ペトロの想像を超えて主イエスは「あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい。」とお答えになります。七の七十倍といいますと490倍ということになりますが、七回赦すということだけでも大変なことです。わたしたちはこの御言葉を聴くときに、わたしたちの努力や決断によってそのようなことが可能なのであろうかと考えるのです。しかしここで、主イエスがおっしゃっていることは、隣人をそのように赦すことができるように、あなたの努力や決断によって頑張りなさい、とおっしゃっているのではないのです。それはなぜかというと、この後のところを見ますとわかってくるのです。

 この後のところには、ある王が家来にお金を貸して、その決済をしようとしたとあります。お金を返してもらおうと、家来たちを呼び出したということです。その家来の一人が、王様の前に連れてこられました。彼はどのぐらいの借金をしていたのかというと、一万タラントンの借金をしていたとあります。この一万タラントンというのはどういう額なのかと言うと、聖書の巻末のところに度量衡の表がありますが、その表を見ると、一タラントンというのは、六千デナリオンになるということが記されてあります。この一デナリオンというのは、当時一日の労働者の賃金に当たると言われています。今で言えば、どのぐらいでしょうか。仮に一万円としても、一タラントンというのは6000万円いうことになります。その一万倍ということですから、6000億円ということになってしまいます。これは天文学的な数字です。とても一個人が一生かかっても働いて返せるお金ではない。そのお金を返済してくれと言われたときに、返済できませんというふうに答えるしかないわけです。そうしたところこの王様は、「自分も妻も子も、持ち物も全部売って返済するように命じた。」とあります。自分の持ち物を売る、自分や自分の妻子も奴隷として売って、それでお金をつくって返せと、王は命令するわけです。その命令に対して、その家来は、ひれ伏して床に顔をつけるようにして、「どうか待ってください。きっと全部お返しします。」と、しきりに願ったとあります。そういう家来を見て、その「主君は憐れに思って、彼を赦し、その借金を帳消しにしてやった。」とあります。数千億円の借金を帳消しにするという驚くべきことをしてしまう王様なのです。  聖書ではしばしばこの借金というのは、神様に対する負い目、負債すなわち罪であるということが示されています。それが帳消しにされるということは罪が赦されるということを表しているのです。わたしたちの積もり積もった神様に対する罪、その罪の償いのために、わたしたちが罰せられるのではなくて、わたしたちの身代わりになって、愛する御子イエス・キリストを十字架にかけてくださる、そういうことをわたしたちの天の父なる神様はしてくださったのです。十字架というのは、そういう意味なのです。神様があまりにも大きな犠牲を払ってくださって、わたしたちの罪を帳消しにしてくださったのです。今日の箇所で言いますと、この主君、王様が6千億円という借金を帳消しにしてくれた。このことは、この王様にとっては、とてつもない犠牲を払ったということになります。その犠牲ということが、その犠牲が十字架ということなのです。

 わたしたちの罪の重さというと、何かピンとこないと言われるかもしれません。しかしわたしたちの罪の重さということが、どこに表されているのかと言いますと、それは、イエス・キリストが十字架にかかってくださったということに表れているのです。わたしたちの代わりに無実の何の罪もないお方が死刑にされる、それほどまでに、わたしたちの罪は重いということになります。わたしたちが日々重ねてしまっている、どうしようもない罪、自分では解決できないそういう苦しい状況、罪の鎖に縛られて、牢獄の中に入っているかのような、そのような状況の中にあるわたしたちに対して、天の父なる神様はその解放のために、愛する御子イエス・キリストを十字架にかけてくださったということなのです。

 わたしたちがすでに神様の大きな犠牲によって、わたしたちの罪が赦されたということを信じるならば、わたしたちは自分に対してなされた隣人の罪を赦すということが、自分の決意や努力ということではなくて、当然することとして、わたしたちができるということなのです。わたしたちが人を赦すということは、自分の力で七回赦すとか、七の七十倍赦すとかいう、そういうことに基づくものではありません。わたしたちが見たこのペトロの七回までですか、というペトロの姿は、自分の決意や努力によって、隣人の罪を赦そうとしている姿です。そういうわたしたちの決意や努力によって、隣人からの罪を赦すということではなくて、わたしたちが罪赦されているということに基づいて、わたしたちが隣人の罪をも赦すことができる、そのようにしてわたしたちを導いていてくださることを、わたしたちが信じることができるときに、わたしたちは当然のこととして、隣人から罪を赦すことができるということなのです。

 それはわたしたちにとって新しい世界であり、そのような新しい世界を、イエス・キリストはわたしたちに指し示してくださっています。「我らに罪を犯すもの我らが赦すごとく、我らの罪をも赦したまえ。」とわたしたちは主の祈りで祈りますが、わたしたちはその隣人に対する罪の赦しということを、わたしたちの決意や努力ではなくて、わたしたちがその赦しができるように、わたしたちは主によって導かれているのです。天の父なる神様が、主イエス・キリストの十字架の犠牲によって開いてくださった新しい赦しの世界、その世界にわたしたちも入っていくことができるように祈り求めてまいりましょう。

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