2023.9.10 聖霊降臨節第16主日礼拝
エゼキエル書 第33章7~9節
ローマの信徒への手紙 第13章8~10節
マタイによる福音書 第18章15~20節
                          

「兄弟を得るために」

 本日は「マタイによる福音書」を中心に御言葉に聴いてまいりましょう。

 本日の15節に、「兄弟があなたに対して罪を犯したなら」ということが語られています。兄弟とは教会の兄弟姉妹です。その中の誰かが、自分に対して罪を犯すこと、自分を傷つけ、苦しめ、いろいろな意味での損害を与えることがある、自分がその被害者になることがある、そういうことが見つめられているのです。このように見てくると、マタイによる福音書では、教会という群れ、共同体というものを決してきれいごととして見ていないことがわかります。

 兄弟が自分に対して罪を犯すといういうことが起った時に、主イエスはわたしたちに先ず何をせよとおっしゃっているのでしょうか。それは、「行って二人だけのところで忠告しなさい」ということです。自分に罪を犯している人と自分と、その二人きりのところで、忠告をする、つまり、あなたがわたしにしたこのことは罪だ、と指摘をし、反省を求める、悔い改めを求めるのです。要するに、相手と直接に、率直に語り合うのです。しかし、このことは自分にも非がある場合もあり、現実にはなかなか難しいこともありますが、ここでわたしたちがしっかり聴き取らなければならない大切なことは、むしろその次の「言うことを聞き入れたら、兄弟を得たことになる」という言葉なのです。「言うことを聞き入れる」とは、忠告を受け入れて、罪を認め、それを悔い改める、そして「悪かった」と詫びることです。それは、お互いの間に理解と共感が生まれ、悪意や敵意が乗り越えられて、よい関係が回復することです。それによって「兄弟を得る」ことが起るのです。もともと兄弟姉妹であったものが、罪によってその間が引き裂かれ、兄弟として歩めなくなってしまっている、その問題が解決されて、再び兄弟となることができる、そのことこそ、この二人きりの話し合いの目指すところなのです。この目的をしっかりと見据えておくことが何よりも大事です。

 けれども、そのように二人だけで話をしても、それがうまくいかないことも多々あります。相手を兄弟として得ることができない、よい関係を回復することができない場合です。その時には、次の16節に、「ほかに一人か二人、一緒に連れて行きなさい」と教えられています。一人か二人の人に共に行ってもらって、二人または三人で相手の説得に当るのです。しかし、そのように二人または三人で説得に当っても、なお「聞き入れない」、悔い改めがなされず、兄弟の交わりを回復することができない、ということも起ります。その場合にはどうするか、それが17節です。「それでも聞き入れなければ、教会に申し出なさい」とあります。ここに「教会」という言葉が出てきています。

 ここで「教会」と言っているのは、信仰者の群れとしての教会の全体のことです。誰か中心になって教会を指導している人や人々ではなくて、そこに連なる全ての信仰者たちが「教会」なのです。その教会に、この兄弟の間の罪の問題が申し出られるのです。ということは、教会に連なる全ての者たちが、この問題を自分のこととして受け止め、担うということです。つまり、誰かと誰かの間でのトラブルを、「あれはあの人たちの問題で、私とは関係ない」と言ってしまってはならないということです。教会の兄弟姉妹の間で起る様々な問題、罪による傷つけ合い、それは、自分が当事者でなくても、決して自分と関係のない他人事ではないのです。

 それではそこでわたしたちは何をすればよいのでしょうか。わたしたちがそこで本当にするべきことは何か、それが、18節以下に教えられているのです。18節に、「あなたがたが地上でつなぐことは、天上でもつながれ、あなたがたが地上で解くことは、天上でも解かれる」とあります。これは、わたしたちがこの地上で人を罪につなぎ、つまりその人を罪人としてあくまでも断罪するか、それともその人を罪から解く、つまり赦すか、そのことが、天上で、つまり神様ご自身がその人の罪を赦さないか赦すかを決定づけるのだということです。

 そしてそれに続いて、「どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる」と言われています。それは、二人で心を合わせてお祈りすれば何でも欲しいものが手に入るということではありません。わたしたちが地上で兄弟の罪を赦すことができるように、その神様の期待に応えることができるように、ということを二人が祈り求めていくなら、その願いは必ずかなえられる、ということなのです。その二人とは、自分に罪を犯した兄弟と自分との二人かもしれません。あるいは、罪によって兄弟の関係が失われてしまっている人々のことを思い、その関係が回復されることを願って心を合わせてとりなしの祈りをする二人の第三者であるかもしれません。

 わたしたちが、教会の兄弟姉妹の中で起る罪による傷つけ合いを見る時に、本当になすべきこととは、このとりなしの祈りなのではないでしょうか。争い合い、傷つけ合う兄弟姉妹のことを覚えて、彼らがお互いに、相手を罪から解くことができるように、相手の罪を赦すことができるように、そしてお互いを兄弟として得ることができるように、わたしたちは心を合わせて共に祈るのです。そのような祈りがなされていく共同体こそが、教会です。教会が他の人間の集まり、他の共同体と違うところがあるとすれば、それはこの祈りが兄弟姉妹の間でなされていくというところです。

 そのような祈りを二人または三人が心を合わせて祈っていくところに、十字架の苦しみと死によってわたしたちの罪を赦してくださった主イエス・キリストが共にいてくださり、わたしたちの切なる願いを聞いて、それをかなえてくださるのです。兄弟を得させてくださるのです。平和を宣言してくださるのです。わたしたちはそのことを確信してこれからの人生を希望を持って歩んでいくことができるように祈り求めてまいりましょう。

  閉じる