2023.9.3 聖霊降臨節第15主日礼拝
エレミヤ書 第20章7~8節
ローマの信徒への手紙 第12章1~2節
マタイによる福音書 第16章21~28節
                          

「命の代価」

 本日は「マタイによる福音書」を中心にみ言葉に聴いてまいりましょう。

 本日の聖書箇所の21節に、「このときから、イエスは、御自分が必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている、と弟子たちに打ち明け始められた。」とあります。イエス・キリストは、エルサレムでゴルゴダの丘というところで十字架にかけられて処刑されてしまいます。しかし、三日目に復活をなさった。そのことを主イエスはあらかじめ知っておられて、弟子たちにそのことをお話になったのです。それを聴いて、あなたこそ救い主であられる、「生ける神の子である」と信仰の告白をしたばかりのペトロが大変びっくりして、「主イエスをわきへお連れして、いさめ始めた。」のです。「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません。」と主イエスをいさめ始めたのです。そのペトロに対して、23節にありますが、「イエスは振り向いてペドロに言われた。『サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている。』」とおっしゃいました。これは大変、厳しい主イエスの言葉です。この引き下がれ、という言葉を直訳しますと、「わたしの後ろに」という言葉です。「わたしの後ろに回れ」という言葉なのです。この言葉はマタイによる福音書の他の箇所にも出てきます。ペトロや弟子たちが漁師をしていたときに、主イエスが彼らをお招きになった言葉「わたしについて来なさい」という言葉ですが、そのときと同じ言い方がされています。「わたしの後ろに回りなさい。わたしについてきなさい。」という意味の言葉です。その後、主イエスはさらにおっしゃいます。24節ですが、「それから、弟子たちに言われた。『わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。』」とあります。この「わたしに従いなさい」というところですが、「サタン、引き下がれ」と主イエスがペトロにおっしゃった言葉、直訳すると「わたしの後ろに」という言葉がここでも使われているのです。わたしの前を邪魔するのではなくて、わたしの後ろに回って、わたしに従いなさいと、主イエスはおっしゃる。そのことが、あなたにとっての救いの道であり、本当の命を得るための道なのだと。主イエスはここでおっしゃるのです。ですから、「サタン、引き下がれ」というこの言葉は、必ずしもペトロを裁いたりしている言葉ではありません。だから、むしろ「わたしの後ろに、従いなさい」という主イエスの招きの言葉とも言えるのです。それこそが、あなた方が本当の命を得る道である、あなた方にとっての救いの道であると主イエスはおっしゃるのです。

 「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」と主はお命じになられます。自分を捨て、自分の十字架を背負う。この「自分を捨て」という言葉ですが、直訳しますと、自分を否定する、ということです。自分の十字架を背負うということも、自分を否定することと繋がってまいります。わたしたちはもともと自己中心的に生きてしまう者たちです。わたしたちは、隣人のこと、神様のことを愛しなさい、という戒めを与えられていますが、わたしたちは、ついつい自分を中心に生きてしまう。自己中心的に生きてしまうのです。それがまさに、聖書でいうところの罪ということなのです。創世記でアダムとエヴァが神様から禁じられた知恵の木の実を食べて以来わたしたちにまとわりついてしまったものなのです。そのように自己中心的に生きてしまう、そのような自分を捨てて、自分を否定して、自分の十字架を背負って、主イエスの御後に従っていくこと、そのことがまさにわたしたちにとっての本当の命をいただく道であり、そのことがわたしたちにとって救いの道であると主イエスはおっしゃるのです。そしてわたしたちに、そのように生きるようにと招いていてくださるのです。

 26節に、「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。」とあります。たとえわたしたちが全世界のものを手に入れたところで、その日のうちに命を失ってしまったならば、何にもならないではないか、ということなのです。わたしたちが生きている間にどんなに多くの財産を積み上げてみたところで必ずいつかは死ぬのです。その死んでしまう自分の命を買い戻そうとしても、いくらお金を積んでも、わたしたちには命を買い戻すことはできません。しかし、わたしたちの救い主であられるイエス・キリストは、十字架の上でわたしたちの罪のために、命を献げてださいました。わたしたちの命の代価を払ってくださったのです。本来であれば、罪深いわたしたちが十字架の上で、処刑されなければならなかったにもかかわらず、イエス・キリストがわたしたちの身代わりになって命を献げてくださった、その代価を払ってくださったのです。わたしたちがとても逃れることができないと思われるとても恐ろしい力である死の力からわたしたちを解放してくださったのです。それはわたしたちにまことの命を与えてくださるために、愛する御子イエス・キリストを十字架にかけるという大きな犠牲を払ってくださった、そのわたしたちの命の代価を払ってくださったという、神様の大いなるわたしたちに対する救いの恵みということなのです。その大きな恵みにふさわしいお返しをわたしたちは何もすることはできません。しかし、わたしたちがなすべきことはその大きな恵みに感謝するとともに、主イエスの御後に自分の十字架を背負って、自分を捨てて、従っていくこということなのです。それはわたしたちの義務ということでありません。わたしたちがまことの命を得るためなのです。それこそがわたしたちにとっての救いの道なのです。そのことをいつも確信して、希望をもって生きていけるように祈ってまいりましょう。

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