2023.8.20 聖霊降臨節第13主日礼拝
イザヤ書 第56章1節、6~7節
ローマの信徒への手紙 第11章13~15節、29~32節
マタイによる福音書 第15章21~28節
                          

「まことの祈願」

 本日はマタイによる福音書を中心に言葉に聴いてまいりましょう。

 本日の聖書箇所の21節には、「イエスはそこをたち、ティルスとシドンの地方に行かれた」とあります。そこはまさに異邦人の土地ということです。聖書においては、この異邦人という人たちとは、どういう人たちを指していたのかというと、イスラエルの部族、イスラエル人ではない人たちということです。その人たちを異邦人として区別していました。なぜ異邦人を区別していたのかと言うと、救いはまずイスラエルの民、神の民であるイスラエルの民にあるということが旧約聖書の教えだからです。異邦人は律法上の教えを知らないがゆえに、宗教的に汚れているとさえ言われておりました。その異邦人の土地に主イエスが行かれた。そうしますと、「この地に生まれたカナンの女が出て来て」あります。この人はまさに異邦人でした。彼女は、主イエスのところにやってきて、「『「主よ、ダビデの子よ、わたしを憐れんでください。娘が悪霊にひどく苦しめられています。』と叫んだ。」とあります。この娘はひどい苦しみの中にあったのでしょう。その母親であるカナンの女を主イエスは三度も拒否されるのです。23節にその彼女の求めに対して、「しかし、イエスは何もお答えにならなかった。」とあります。最初はこの女性を無視なさったのです。そして二番目には、「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」とおっしゃいました。「イスラエルの家の失われた羊」これは神の民イスラエルの人たちを指します。迷える神の子羊、その羊たちの救いために主イエスは遣わされているとおっしゃいました。聖書の教えによれば、救いはまず神の民イスラエルにもたらされるとあります。一見冷たいようですけれども、神様の救いのご計画を主イエスもしっかりと心に留められて、まずは神の民イスラエルを救うのだと。それが優先順位であるとお考えになっておられたのです。しかし、この女性は諦めることをいたしません。その次に、25節にありますように、「しかし、女が来て、イエスの前にひれ伏し、『主よ、どうかお助けください』」と、さらにしつこく主イエスにすがりつくように救いを求めたのです。そうしたところ、主イエスが26節にありますが、「子供たちのパンを取って小犬にやってはいけない」とお答えになりました。「子供たち」とここにありますが、これはイスラエルの民のことが例えられています。「パン」というのは、神の恵みということです。この「小犬」というのは、異邦人、すなわち神の教えを知らない人たちのことを指しています。彼女は、自分たちが犬、小犬だというふうに例えられたということがわかったのです。普通だったら、自分を犬と例えられ、呼ばれたならば、怒ることでしょう。普通の人は頭にきます。犬畜生という言葉が日本にありますが、そういう侮蔑の言葉です。「わたしを犬に例えるとは何事か」と怒るのが普通です。しかしこの女性は、主イエスに「主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです。」と言ったのです。神の恵みはまず神の民イスラエルに与えられるのであって、わたしたち異邦人には与えられないということはよくわかっております。「しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです。」 わたしたちにパンそのものはいただけないかもしれませんけれどもパン屑はいただいてもいいのではないでしょうか。これは、戒めに反することではありません。神の恵みが異邦人ではなく、神の民イスラエルに与えられるべきものだという神の教え、それに反することではない。パン屑はいただけるでしょう、というこの女性のとっさの機知に富んだ反論がわたしたちの目を引きます。この女性は、ただ熱心に主イエスに救いを祈り求めるだけではなくて、このように機転の利く知恵を発揮して、主イエスに救いを祈り求めたのです。その女性を見て主イエスは、28節にあるように「そこで、イエスお答えになった。『婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように。』そのとき、娘の病気はいやされた。」とおっしゃいました。主イエスに熱心な祈りを三度も拒否されても、主イエスにむしゃぶりつくようにして救いを求めたその彼女の信仰、その信仰は立派だとおっしゃったのです。「信仰が立派だ」ということは、神様に対する大きな信頼感がるということです。わたしたちは、「こんなことまで神様に願い求めてもいいのだろうか」といつも何か遠慮がちに理性的に考えてしまっているところがないでしょうか。主イエスは、聖書の別のところで、「天の国、神の国は子供たちのものである」とおっしゃいました。ある時、主イエスが外で座りになっていたところに、大人が子供たちを連れてやってきたというところがありました。主イエスに触っていただこうとして、主イエスに祝福していただこうとして大人たちが、子供たちを連れてきたのです。その人たちを弟子たちはとがめたのですが、主イエスは弟子たちをお叱りなって、「子供たちを来させなさい。神の国は、このような者たちのものである」とおっしゃいました。子供は自分の力では生きていけません。親の保護がなければ生きていけない。子供たちはお母さん、お父さんと言って泣いて、叫び求める。手放しで両親に求める。そういう、助けてください、救ってくださいとの叫び、そのような叫びをもって、わたしたちは神様に手放しで、子供のように求めているでしょうか。主イエスが必ず何とかしてくださるという、その大きな深い信頼に基づいて、わたしたちは、主にお委ねして、祈っているでしょうか。わたしたちは何か祈りにおいてさえも、取りすまして、冷静を装って神様に向かっていないでしょうか。こんなことはとても無理だと思われることでも、神様に祈ったらいいのです。「助けて」と叫び続けたら良いのです。わたしたちはそういう信頼関係を持って、神様から、主イエスから離れない信仰を持って生きていけるように、そういう信仰をいただけるように祈り求めてまいりましょう。

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