2023.8.13 聖霊降臨節第12主日礼拝
列王記上 第19章9a節、11~13節
ローマの信徒への手紙 第9章1~5節
マタイによる福音書 第14章22~33節
                          

「安心しなさい」

 きょうの聖書箇所の25節に、湖上の逆巻く波の上で苦労して舟を漕いでいる弟子たちのところにイエス・キリストが歩いて近づいて来られたことが記されてあります。その湖の上を歩いておられるイエス・キリストを弟子たちが見て、大変に驚いて動揺いたします。その弟子たちに対してイエス・キリストが声をかけられます。27節に「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」とあります。ここにありますこの「わたしだ」というのは、英語で言えば、I amということです。「わたしはある」とも読めます。「わたしである。」「わたしはある。」これは、旧約聖書の出エジプト記において、モーセを前にして神様が現れておっしゃった言葉と同じです。当時は神様を見たら死ぬと言われておりました。それほど神様を見るということは恐れ多いことであるとされていました。「わたしこそ神である。その神があなたの前にいる。あなたの前に来ているのだ」とキリストがおっしゃる。「安心しなさい。元気を出しなさい。神であるわたしが、あなたの前に現れている。恐れることはない」とキリストははっきりと彼らの前でおっしゃる。そのイエス・キリストの前で弟子の一人であるペトロが「主よ、あなたでしたら、わたしに命令して、水の上を歩いてそちらに行かせてください。」と申しました。ここも直訳しますと、「主よ、あなたが神であられますならば、神であられますので、どうかわたしに命令して、水の上を歩いてそちらに行かせてください。わたしをそのようにさせてください」とペトロは主イエスに訴えかけたのです。「あなたこそ神であられます」という言葉は、ペトロの信仰告白と言ってよいと思います。「あなたこそ救い主であられる。救いはあなたにしかない」という信仰の告白です。そのペトロの信仰の告白にお答えになって、イエス・キリストが29節にありますが、「来なさい。」と呼びかけてくださいました。ペトロは思い切って、「舟から降りて水の上を歩き、主イエスの方へ進んだ。」のです。彼は水の上を歩くことができたのです。しかし、ペトロは「強い風に気がついて怖くなり、沈みかけたので」とあります。この箇所は、口語訳聖書では、「強い風を見たので」と訳されております。ペトロは、イエス・キリストだけを見ていたその視線をそらして、自分がいま置かれている目先の現実に目を留めたときに、途端に恐怖に襲われておぼれてしまいそうになったのです。救い主であられるイエス・キリストから目をそらして、自分が置かれている目先の現実に目を留めてしまいました。神様の助けなくして、その目先の厳しい現実を自分の力で何とかしようと思って、途端に怖くなり、恐ろしくなってしまったのです。わたしたちも、この人生の旅路は、いつも順風満帆ではなく、嵐の中に船出するようなところがあります。特にわたしたちイエス・キリストの弟子として歩む、わたしたちの歩みというものは、イエス・キリストの御言葉に、御声に応えて、水の上を歩いているようなものなのです。特にこの弟子が乗る舟は、教会に例えられていると言われてきました。まさにキリストの教会は嵐の中に船出して、風や強い波にもまれ、いまにも転覆しそうになっている、そういうことが起きているということなのです。この「マタイによる福音書」が書かれた二千年前の、マタイによる福音書を書いたとされる、このマタイという人が所属する教会もそのような状態であったと考えられます。教会はいつも順風満帆ではなく、嵐の中に船出していまにも沈みそうになっている船なのです。

 30節に「(ペトロは)しかし、強い風に気がついて怖くなり、沈みかけたので、『主よ、助けてください』と叫んだ。」とあります。わたしたちも、救い主イエス・キリストから目をそらして、目先の厳しい現状ばかりに目をとめるならば、それを自分の力だけで何とかしようとするならば、途端に沈みかけてしまうのです。自分たちの力では、もうどうしようもない、教会は一体どうなってしまうのだろう。これから五年先十年先、この教会はどうなっているんだろうととても心配になってしまいます。このことをわたしたちの力だけで何とかしようとすれば、わたしたちは途方に暮れるしかないのです。しかし、そこでわたしたちが万策尽きたと思うときに、「主よ、助けてください。」「救ってください」と叫ぶときに、イエス・キリストから目をそらさないで、わたしたちが救いを求めて叫ぶときに、主イエスはわたしたちに手を伸ばして、わたしたちの手を捕まえてくださるのです。イエス・キリストだけを見上げて、「主よ、助けてください、救ってください」と叫ぶことができる幸いをわたしたちはしっかりといつも胸に刻んで、「あなたこそ、本当に神の子です」と言って、主イエスをいつも拝み、救いを求めていける者となりたいと思うのです。

 ところで、彼らの舟には、イエス・キリストは乗っておられませんでした。わたしたちのこの教会にも、はっきりと目に見える形でイエス・キリストがいらっしゃるのではありません。しかし、主イエスは、わたしたちの目には見えないお方でありますが、わたしたちが困難な状況にあるときに、イエス・キリストは自らわたしたちのところに来てくださいます。「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」と語りかけてくださるのですが、それではその御声はどこで聴くことができるのでしょうか。それはまさに、皆さんがいま献げているこの礼拝の場においてなのです。礼拝において、わたしたちは「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」との御声を聴きます。そしてわたしたちが、自分の力により頼むのではなく、「主よ、助けてください。」「救ってください」と主イエスに叫び求める、祈り求める。そしてそのわたしたちを、しっかりと手を伸ばして捕まえてくださるのです。イエス・キリストをしっかりと信じて、信頼して、わたしたちが困難な状況の中にありましても、希望を持って歩んでいくことができるように祈ってまいりましょう。

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