2023.8.6 聖霊降臨節第11主日礼拝
イザヤ書 第55章1~3節
ローマの信徒への手紙 第8章35節、37~39節
マタイによる福音書 第14章13~21節
                          

「五千人の給食」

 本日は、「マタイによる福音書」を中心にみ言葉に聴いてまいりましょう。

 きょう皆さんと聴いてまいりますこの聖書箇所の冒頭に、主イエスが舟に乗って人里離れたところに退かれたとあります。主イエスが湖を舟で渡られる。その舟で渡られていたときに、群衆がそのことを聞いて、主イエスに何とか救っていただこうとたくさんの人たちが集まってきた。群衆は舟に乗って湖を渡ろうとしておられる主イエスの後を、湖のほとりからずっと走って追いかけてきたのでしょう。主イエスは、自分が行こうとされているその移動の行動を中断なさって、「舟を降りて、大勢の群衆を見て深く憐れまれた」とあります。ここにあります「深く憐れみ」という言葉、この言葉の元々の意味は、「はらわたがよじれるほどに深く憐れむ」という強い調子の言葉です。悩み苦しみを抱いて、何とかそのことから救っていただこうと、主イエスを追ってきた群衆をご覧になって、主イエスは、彼らを深く、はらわたがよじれるほどに憐れまれたのです。主は舟から上がられて、群衆の中の病人をお癒やしになりました。この病人というのは一人でありません。何人もの病人を癒される、治されるということをなさいました。しかし、そうこうしているうちに、夕暮れになってしまいました。弟子たちはその様子を見て、とても心配しました。彼らは「ここは人里離れた所で、もう時間も経ちました。群衆を解散させてください。」と言いました。もう夕暮れになっている。これから食事をするにも、どうしたらいいかわからない。早くこの群衆を解散させて、村で食事でもさせなければならない。そのように、弟子たちは心配したわけです。これはもっともなことでした。そういう弟子たちの意見に対して、主イエスは意外にも16節にありますように、「行かせることはない。あなたがたが彼らに食べるものは与えなさい。」とおっしゃる。この群衆の人数ですが、21節に「男が五千人ほどであった。」とあります。男性だけで五千人ということは、女性や子供も含めれば、おそらく一万五千人から二万人ほどの大群衆であったことでしょう。その大群衆に食べ物を与える、どこかに行って、食べ物を買ってくるなどということはほとんど不可能なことです。さらに、17節で「ここにはパン五つと魚二匹しかありません。」と弟子たちは言います。パン五つと魚二匹しかない。これは弟子たちの分だけでも十分な量の食事とは言えません。たったそれしかないのに、「あなた方が二万人もの群衆に食べ物を与えなさい」と主イエスはおっしゃる。そんなことは誰が考えても無理なことだと思えるのです。しかし、主イエスはそれでも「彼らにあなた方が与えなさい」とおっしゃる。お命じになる。そのたったパン五つと魚二匹を「ここに持って来なさい。」と主イエスはおっしゃいました。村に行って、群衆のために食事を調達させるのではなくて、「五つのパンと二匹の魚」でもってなんとかしようと主はなさいました。主イエスはそれを手にお取りになって「天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて弟子たちにお渡し」になられました。そうしたところ「弟子たちはそのパンを群衆に与えた。すべての人が食べて満腹した。」とあります。この主イエスがなさった奇跡、この奇跡が他の奇跡と違うところがあります。他の奇跡は主イエスお一人で、その救いの御業をなさったということなのですが、この皆さんと聴いておりますこの救いの御業が、それらとは異なる点があります。お気づきでしょうか。主イエスは16節にありますように「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい。」とお命じになりました。主イエスが奇跡の業をなさるにあたって、弟子たちもまたその救いの御業、奇跡の御業に参与するということが起こりました。彼らが参与することによって、この大きな奇跡が起こされたということなのです。

 きょうの聖書の箇所はわたしたちに何を示しているのでしょうか。五つのパンと二匹の魚というとてもちっぽけなもので、主はそれをお用いになって奇跡の御業を起こされたのです。わたしたちは教会生活において様々な奉仕をいたします。わたしたちの持っているわずかなちっぽけな能力、持っているものを神様はお用いになって、救いの御業を成し遂げられるのです。

 マタイによる福音書の28章18節から20節に「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことを全て守るように教えなさい。」と、復活なさった主イエスが弟子たちにお命じになるところがあります。もしこの命令によって、弟子たちが自分たちだけの力でことをなそうとしたならば、たった11人しかいない弟子たちが、全力でこのイエス・キリストのご命令を実現しようと一生かかって頑張ったとしても、たかが知れていることだったのです。しかし主イエスは、この11人をお用いになって、宣教の業を成し遂げられています。その証拠にそれから約二千年以経った今、この地にまで、イスラエルの地からはるか遠く離れたこの苫小牧の地にまで、神様の福音が宣べ伝えられているのです。神様を信じる人たちが起こされ、教会は立ち続けているのです。わたしたちは本当にちっぽけで、弱く、無力な者たちです。、自分のことを見れば見るほど、そう思わざるを得ない。人と比べれば、比べるほど自分の無力さに絶望せざるを得ない者たちです。しかし、主は「あなたがたが彼らに食べるものを与えなさい。」「それをここにわたしのところに持ってきなさい」と言われる。その主イエス・キリストの御声にお従いして、わたしたちは安心して、主にすべてをお委ねして、進んでまいりたいと思います。わたしたちはちっぽけで貧しい器でありますけれども、それをお用いになって救いの業をなしてくださる主にどこまでも信頼して、勇気を持って、日々教会の業に励むことができるように祈り求めてまいりましょう。

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