2023.7.30 聖霊降臨節第10主日礼拝
列王記上 第3章5節、7~12節
ローマの信徒への手紙 第8章28~30節
マタイによる福音書 第13章44~52節
本日の最初のところですが、「天の国は次のようにたとえられる。畑に宝が隠されている。見つけた人は、そのまま隠しておき、喜びながら帰り、持ち物をすっかり売り払って、その畑を買う。」とあります。「天の国は次のようにたとえられる。」とありますが、この「たとえられる」という言葉は、直訳しますと、似ているという意味です。また、「天の国」は直訳しますと、神のご支配となります。神様が生きて働いて支配なさっている、そういうことを表しています。「宝」ということですから、本当に価値のあるものだと、その掘り出した人は思ったのでしょう。「喜びながら帰り、持ち物をすっかり売り払って、その畑を買う。」とあります。自分が持っているものを全て売り払って、そこまでするほどの価値がある、宝だったということなのです。さらに次のたとえですが、「また、次のようにたとえられる。商人が良い真珠を探している。高価な真珠を一つ見つけると、出かけて行って持ち物をすっかり売り払い、それを買う。」とあります。今度は真珠が出てまいります。当時、真珠というのは、現代のように養殖という技術はありませんから、今よりも遥かに価値がありました。その真珠をその商人が見つける、その真珠を手に入れるために、持ち物をすっかり売り払ってそれを買う。それほど天の国、神の国は大切なものなのだということなのです。
最初のたとえに戻りますが、その宝というのが、隠されているものである、持ち物を全て売り払っても惜しくないほどの宝物である。天の国、神の国が隠されている、誰の目にも明らかな形で示されているのではないということです。それではその隠された宝を、どうやって見つけることができるのでしょうか。この最初のたとえにおきましては、この畑を耕した人が見つけたのでしょう。小作人か雇われた農夫が、たまたま耕していたらその宝を見つけ出した、それは偶然と言っていいのかもしれませんが、最初からその宝があるということをわかって、その人は一生懸命探したのではありません。たまたまそれを見い出したのです。ここで、結論から申し上げますが、ここで出てきているこの農夫の人、この人はわたしたちのことを指しています。わたしたちのことがたとえられているのです。わたしたちは、何らかのきっかけで、このようにして教会の礼拝に集うことになった群れ、神様を信じることになった群れです。それぞれのきっかけは、みんなそれぞれ違っていることでしょう。神様がわたしたちをここまで導いてくださったのです。わたしたちはそのようにして天の国という宝を見いださせていただいた者たちです。しかし、その宝というのは、わたしたちがただ見つけただけでは、わたしたちのものにはなりません。見つけたからといって自分のものになるわけではない。44節にありますが、「持ち物をすっかり売り払って」とあります。自分の持ち物、全財産を売り払って、その畑を買う。宝を手に入れる。これは大変なことです。ここでわたしたちが勘違いしてはならないのですが、財産を持っている人は財産を捨てなさいというようなことをイエス様はここでおっしゃっているのではありません。財産の替わりにそれよりももっと価値のあるものを手に入れて生きることは本当にすばらしいことだとおっしゃっているのです。自分がよりすがるもの、頼るものそのことをわたしたちはいつも考えながら、この悩み多き人生を歩んでいます。もう少しお金があったらば、もっとお金があったらば、もっと平安に心安らかに過ごせるのにと思ってしまう。誰か頼りになる親戚、知人がいれば、その人を頼って何とか困難なことがあっても乗り越え生きていけるというようなことをわたしたちは考えてしまいます。しかし、そのようなものよりも、遥かに大切な、ありがたいものがある。それがこの天の国なんだと主イエスはおっしゃるのです。さらに言えば、この宝物とはさらに突き詰めて考えますと、イエス・キリストへの信仰そのもの、そのお方そのものへの信仰であると言ってよろしいかと思います。わたしたちを救ってくださるイエス・キリスト、わたしたちの罪の救いのために、十字架にかかられ、そしてわたしたちの想像をはるかに超える苦しみを味わわれて、死なれ、陰府にくだられる。そして復活なさる。そこにこそ神様の愛が表されている。それを信じて生きることこそが、わたしたちの宝ということなのです。しかし、それは誰の目にも明らかな宝ではありません。この世で隠されているものをわたしたちが見つけ出す。それは神様の招きによってわたしたちができることなのです。そのように神様の天の御国、すなわち宝を見つけ出して、そしてそれを自分のものにする。それは、神様の招きに従って自分を捨てて、主の弟子になって生きる。自分の十字架を負って主に従っていく。そのことが、何物にも代えがたい宝を見いだして、宝をいただいて生きるということなのです。 次のたとえに、「高価な真珠を一つ見つけると、出かけて行って持ち物をすっかり売り払い、それを買う。」とあります。天の国を探し求めていた商人が良い真珠を見つけて、それを見つけたら持ち物を全て売り払ってそれを買うとあります。この場合は隠されている宝ではありません。自分が探し求めていたもの、それほどその真珠を見つけ、そしてその真珠を手に入れるために、持ち物をすっかり売り払う。なんとしてもその探していた良い真珠を手に入れるために、熱心に求めていく。それが、主の招きにお答えして、わたしたちが洗礼を受け、信仰者として歩む。そのことを指しているのではないでしょうか。この隠された宝、その宝は隠されているがゆえに、誰の目にも明らかなものではありませんが、その宝を見つけたときに、わたしたちは自分を捨てて主の招きに従って歩む。そのことこそが、わたしたちの救いということなのです。そのように主が招いていてくださるということを今日の聖書の箇所はわたしたちに示してくれています。その事を心に留めて、今日という一日を希望持って生きる者となれるように祈り求めてまいりましょう。 閉じる