2023.7.23 聖霊降臨節第9主日礼拝
イザヤ書 第44章6~8節
ローマの信徒への手紙 第8章26~27節
マタイによる福音書 第13章24~30節、36~43節
本日はマタイによる福音書を中心にみ言葉に聴いて参りましょう。
本日みなさんと聴いてまいります箇所は、「毒麦のたとえ」と一般的に呼ばれているところです。「毒麦」とあります。ここで出てまいりますこの毒麦というのは、食べられない、毒のある雑草ということです。畑で麦を育てていると麦ではない、麦に似たような植物が混ざってきてしまう。この毒麦を抜いてしまいましょうかと、僕たち奴隷たちが、主人のところに来て、指示を求めたところ主人は、『いや、毒麦を集めるとき、麦まで一緒に抜くかもしれない。刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい。刈り入れの時、「まず毒麦を集め、焼くために束にし、麦の方は集めて蔵に入れなさい」と、刈り取る者に言いつけよう。』と言いました。このことは、これはたとえ話ですから、何を例えているのかということですが、この畑というのは、この世、この世の有様。特に神の畑、すなわち、わたしたちのこの教会のこと、この世にあります教会のことを表しているということなのです。そのことが今日の皆さんと聴いてまいります聖書の箇所の後半、36節以下にあります。特に37節以下ですけれども、「イエスはお答えになった。「良い種を蒔く者は人の子、畑は世界、良い種は御国の子ら、毒麦は悪い者の子らである。毒麦を蒔いた敵は悪魔、刈り入れは世の終わりのことで、刈り入れる者は天使たちである。だから、毒麦が集められて火で焼かれるように、世の終わりにもそうなるのだ。」ということです。種を蒔いたのが、人の子イエス・キリストのことで、種を蒔いてくださる。その種が育って麦になる。それは毒ではない良い麦ということなのです。その中で悪魔サタンが毒麦を畑に蒔く。それで毒麦も育ってしまう。しかし、世の終わりには、その毒麦は集められて火で焼かれてしまう。この世の終わりには、神様の裁きが下されて、悪い麦が焼かれる。そういう有様をたとえているということなのです。それでは、良い麦、毒麦というのはどういうことなのか。わたしたちは一体、良い麦なのか、毒麦なのか。聖書に世の終わりには、毒麦は、裁きにあって焼かれてしまうとありますが、果たしてわたしたちは良い麦なんだろうかということです。それとも神様の裁きを受けて焼かれてしまう麦なのだろうかということを、わたしたちは心配になってしまいます。自分は一体どちらなのだろうか。あの人はどうなのだろうかということも気になる。しかし、毒麦か良い麦なのかということを、わたしたちは単純に見分けることができるのでしょうか。そもそも教会の秩序を乱すような鼻つまみのような人が、もしいるとしたら、その人は多くの人たちから指をさされて、毒麦だと思われて、排除されてしまうということは、現実的にあるのかもしれません。しかし自分が良い麦なのか毒麦なのかもわからない、この集まりの中で、誰がいったい、誰があの人が毒麦だというふうに言えるのでしょうか。その裁きはわたしたちにはできません。それは、終わりの日に神様がなさることです。しかし、だからと言って、良い麦も悪い麦もそのままでいてよろしいということを、イエス様はおっしゃっているのではないでしょう。毒麦は、終わりの日には神様の裁きを受けるということは、これは前提としてある。それはわたしたちはしっかりと受け止めなければならない。しかし、わたしたちが、自分は果たして毒麦なのかもしれない、良い麦なのだろうかといって、終わりの日までわたしたちがドキドキしながら不安な気持ちで生きなければならないのかというとどうなのでしょうか。イエス様が、今日のところでおっしゃる29節に「主人は言った。『いや、毒麦を集めるとき、麦まで一緒に抜くかもしれない。刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい。』」とあります。間違って毒麦を抜こうとして、良い麦まで一緒に抜いてしまうかもしれないので、刈り入れまで待ちなさい。辛抱していなさい、ということを主はおっしゃる。間違って良い麦を抜いてしまうかもしれない。少しの犠牲はやむを得ないというような考えは、ここにはないのです。神様は、毒麦であろうと、良い麦であろうと、一本一本を大切に扱ってくださる。大切にしてくださるということが、ここで示されています。毒麦もそのままにしておきなさい。それは神様の忍耐ということなのです。神様の慈しみと、忍耐がここで示されています。 それでは、良い麦や毒麦というのが、終わりの日まで毒麦は毒麦であり、良い麦は良い麦であり続けるということなのでしょうか。神様は悪い麦であるわたしたちを良い麦に変えてくださる。その可能性があるということをわたしたちは、心に留めなければなりません。天の父なる神様は、愛する御子イエス・キリストをこの世にお遣わしになられ、罪深いわたしたちの罪を赦すために、わたしたちに代わって、十字架という死刑の刑罰をイエス・キリストに下されました。そのお陰でわたしたちは罪の刑罰を免れる。それがわたしたちにとっての救いということです。その十字架を仰ぎ、イエス・キリストを信じるときに、わたしたちは良い麦に変えていただける。そのために、悪い麦であるわたしたちを神様は大いなる忍耐と慈しみをもってわたしたちを育んでくださるのです。刈り入れのときまで待ってくださる。忍耐して待っていてくださる。あの人は毒麦だ、何となくわたしたちは自分が良い麦であるかのような立場に立って、人を裁いてしまうことがあるのではないでしょうか。わたしたちは罪ある者たちですから、わたしたちが隣人を裁くことはできません。わたしたちはむしろ裁かれる者たちなのです。 わたしたちは、ともすれば人を裁いてしまう罪深い弱い者たちですが、裁きは神様にお委ねして、神様の忍耐と慈しみによって、共に育てられている麦として、お互いを受け入れ合っていくことが求められています。そして、毒麦を抜かずに、刈り入れのときまで抜かずにおくという神様の忍耐、わたしたちもその忍耐にならって、お互いが忍耐し赦し合って生きていくことができるように祈ってまいりたいと思うのです。 閉じる