2023.7.9 聖霊降臨節第7主日礼拝
ゼカリヤ書 第9章9~10節
ローマの信徒への手紙 第8章9節、11~13節
マタイによる福音書 第11章25~30節
                          

「まことの安らぎを求めて」

本日は、「マタイによる福音書」を中心に御言葉に聴いてまいりましょう。

 本日の聖書箇所である「マタイによる福音書」の11章28節に「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」とあります。わたしたちは皆、生きていく中で疲れを覚えることが多くあります。この世を生きていくことは疲れることです。またわたしたちは重荷を負って生きています。負うべき重荷が何もない人などはおりません。ここで言われている「休ませる」というのは、仕事などから一旦離れて休む、そしてリフレッシュされて、新しい気力と力を与えられて再び働きに戻っていく、そういうことを意味している言葉です。しかし、だからと言ってもう疲れの原因が全て取り除かれて、一切疲れがなくなる、というのではありません。また、重荷が全部取り去られて、これからは身軽になって歩める、ということでもありません。この世を生きている限り、この人生を歩んでいる限り、わたしたちはどうしても疲れを覚えざるを得ないのです。なんらかの重荷を負わされるのです。それらを全て捨ててしまおうとしたら、この世から出て行くしかありません。死ぬしかありません。わたしたちは生きている限り、疲れはあるし、重荷もなくならないのです。しかしそこに「休み」が与えられる。それによってわたしたちは疲れを癒され、リフレッシュされ、新しい力を与えられて、もう一度、人生の歩みへと、重荷をしっかりと背負って踏み出していくことができる、そういう休みを、わたしがあなたがたに与えると、この言葉は語りかけているのです。

 しかし、主イエスは、「わたしのもとに来なさい」と言われるけれども、それではいったいどうしたら主イエスのもとに行くことができるのでしょうか。29節には、「わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる」とあります。ここに、わたしたちがキリストのもとに行くとはどういうことであるかが語られています。「わたしの軛を負い、わたしに学ぶ」、それがわたしのもとに来ることだと言われているのです。「軛を負う」ということはどういうことでしょうか。「軛」とは二頭の牛の肩に背負わせる道具で、木などでできた枠のようなものですが、それに犂(すき)をつなげて畑の土を耕す道具です。いまでも世界を見渡せば各地で使われています。軛を負わされた家畜は、自由には動けません。飼い主の指示する方向に、指示された時に歩かなければならないのです。ですから軛は、不自由、束縛の象徴でもあります。そうすると、イエス・キリストの軛を負うとは、イエス・キリストに従い、その教えや指示通りに生きていく、ということになるでしょう。それを別の言い方で言えば、「わたしに学ぶ」ということになるのです。この「学ぶ」という言葉は、「勉強する」と言うよりも、「弟子になる」という意味です。しかし、ただイエス・キリストの教えを学んで理解するというのではなくて、キリストに従っていく、ついていく、そして師であるキリストに見習っていく、ということです。キリストのもとに来るとは、そのように、キリストの軛を負い、弟子になることなのです。

 29節で「そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる」と言われています。ここでキリストは、わたしの軛を負い、わたしに学ぶこと自体に安らぎがあると言っておられるのです。わたしたちは様々な重荷を背負って歩んでおりますが、キリストの軛を負う時に、イエス・キリストがわたしたちの重荷を共に背負って、並んで歩いてくださっていることを見出すのです。この「軛」というのは先ほども申しました通り通常二頭の家畜を並べてつなぎ、働かせるものです。つまりわたしたちがキリストの軛を負う時、そこにはわたしたちと並んで共にこの軛を負っているお方がいてくださっている。それは、柔和で謙遜なイエス・キリストです。キリストの軛を負うことによって、わたしたちの歩みは、柔和で謙遜なイエス・キリストと共に生きる歩み、キリストがわたしたちの重荷を共に背負ってくださる歩みとなるのです。

 柔和で謙遜な方であられるイエス・キリストと共に歩むところには、まことの安らぎがあります。わたしたちには、本当の休みを与えられ、リフレッシュされて、自分の重荷をしっかりと負って生きていく新しい力を与えられるのです。30節に「わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである」とあります。イエス・キリストの軛は負いやすい、それは、イエス・キリストが、ただわたしたちに軛を負わせ、わたしたちをこき使おうとしておられるのではないからです。キリストは、わたしたちと共に、この軛を負ってくださるのです。

 疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。

 イエス・キリストがいまわたしたちに向かって、こう呼びかけておられます。わたしたちは、このイエス・キリストのもとに行って、まことの安らぎを与えられたいのです。それでは、どこへ行けば、このイエス・キリストにお会いすることができるのでしょうか。それはみなさんとともにいま献げておりますこの礼拝においてです。毎週日曜日に教会で献げられているこの礼拝は、わたしたちが、柔和で謙遜なお方であるイエス・キリストにお会いする場なのです。そしてここでわたしたちはキリストの軛を負い、キリストに学ぶ弟子となって生きていくのです。キリストは「世の終わりまでいつもあなた方と共にいる」と弟子たちに約束してくださいました。そのキリストが、いまこの礼拝の場で、わたしたちに出会い、共に歩もうとしておられるのです。礼拝において、救い主イエス・キリストと出会い、共に歩むところにこそ、まことの安らぎがあります。様々な重荷を負っているわたしたちでありますが、その中でわたしたちは、礼拝を守りつつ、柔和で謙遜な主イエス・キリストと共に軛を負って歩む者たちでありたいのです。そして、そのことによって、わたしたちの重荷は、わたしたちが負うことのできる、軽い荷となるのです。

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