2023.7.2 聖霊降臨節第6主日礼拝《教会創立記念礼拝・召天者記念礼拝》
ホセア書 第13章9~14節
コリントの信徒への手紙一 第15章50~48節
本日は、「コリントの信徒への手紙一」を中心にみ言葉に聴いてまいりましょう。
このコリントの信徒の手紙一は16章までです。その前の15章の一部の箇所を皆さんと聴いているわけですが、このきょうのところで、これまでこの手紙で述べてきていた、神の教え、神の福音のいわば総決算として、復活の希望ということを力強くコリントの人たちに向かって語っているのです。聖書の教え、神の救いとは何かということを考えるときに、この復活ということを抜きにしては何も語ることはできないということなのです。 なぜ復活が起きたのでしょうか。本来であれば、神様に対して、隣人に対して、深く大きな罪を犯してしまったわたしたち人間、その刑罰を受けなければならなかったのはわたしたちのほうであったにもかかわらず、その身代わりとなってイエス・キリストは刑罰にかけられました。その刑罰は、わたしたちの罪がそのことによって赦されるということでした。そしてそれは、ただ主イエスがわたしたちの身代わりになって、わたしたちの罪の赦しのために、十字架にかけられた、死なれたということだけで終わったのではありません。驚くべきことに、主が死なれて三日目に復活なさる、そういう奇跡が起こされたということなのです。そのことがわたしたちにとっての大きな意味があるのです。わたしたちにとって、そのことが救いである。そのことがなければ、わたしたちの救いというのが成り立たないということが聖書全体において示されているのです。特にきょう皆さんと聴いてまりますこの箇所において、いわばその頂点がここに示されているのです。救いのみ業とは何かということがここで最もはっきりと示されていると言っても過言ではありません。わたしたちを縛り付けている罪の力、死の力が主イエスの復活によって打ち破られたのです。そのことがわたしたちの救いの源なのです。 それでは、その復活というのはいつ、わたしたちに与えられるのでしょうか。イエス・キリストが、再びこの世に来られる日、再び臨むと書いて再臨と言いますが、そのときが必ず来る。そのときに復活が与えられるのです。それはわたしたちにはいつ来るのか、神様にしかわからないことではありますが、そのときが必ず来るのだと、聖書には示されてております。神様を信じて生きる者たちはそのことを信じながら、希望を持って、この地上の生涯を、人生を歩んでいるということなのです。 パウロは、終わりの日、イエス・キリストが再びこの世に来られる日に、わたしたちがどのように復活するのか、今日のところの前にもありますが、どのような体で、復活するのかということを、パウロはここで述べています。朽ちるものが、朽ちないものを着る。53節に「この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを必ず着ることになります。」とあります。朽ちるべきものというのは、この肉体を持つわたしたちのことです。この地上を生きるわたしたち、切れば血が出る肉体を持っているこのわたしたちの今の命は必ずやいずれ朽ちてしまう、滅びるときが来るわけですが、その朽ちるべきわたしたちが、死なないものを着るということ、それはどういうことなのでしょうか。51節の終わりのところに、「わたしたちは皆、今とは異なる状態に変えられます。」とあります。さらに52節に「最後のラッパが鳴るとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は復活して朽ちない者とされ、わたしたちは変えられます。」とあります。イエス・キリストが、再び来られる日に、そのときにすでにわたしたちは、この地上の生涯を終えているかもしれません。そのわたしたちが、先に亡くなった人たち、召された人たちとともに、復活の命、永遠の命を与えられるということ、決して滅びることのない命をわたしたちは与えられるということがここで約束されているのです。わたしたちは死ぬということをとても恐れます。誰も平静な気持ちで死を迎えることはできません。しかし、天の父なる神様は愛する御子イエス・キリストをよみがえらせることによって、死の力をうち破られたのです。死の力に勝利されたのです。わたしたちは、いつか必ず終わりの日が来て復活させられます。先に召された人たちとともに、よみがえりの命をいただいて、顔と顔を合わせて、神様の御前に出ることができる日が来るのです。そのわたしたちの体は、49節にありますが、「わたしたちは、土からできたその人の似姿となっているように、天に属するその人の似姿にもなるのです。」「天に属するその人」とは、イエス・キリストのことです。イエス・キリストに似た者にされる。そのような者としてわたしたちは復活させられるのです。わたしたちが今を生きる地上の生涯、この人生は楽しいことよりも、悲しくつらいことの方が多い人生です。生きる希望も失いそうになるときもある。しかし、わたしたちがこの地上の生涯をどんな苦しみの中に生きたとしましても、終わりの日にはわたしたちは必ずやキリストに似た者として復活させていただけるのです。そのことが聖書で約束されております。その約束は神様の約束です。これはどんなことがあっても、揺らぐことはありません。 もしもわたしたちの人生が、死んだら全ておしまいになってしまう、ということであれば、わたしたちは行き当たりばったりに、好きなだけ飲んだり食べたり、好き勝手なことをして生きてしまうかもしれません。しかし、わたしたちが必ず復活の命を与えられるという、その約束をわたしたちは信じるときに、わたしたちの地上の生涯、人生の生き方は変えられていきます。「今だけ。自分だけ」という生き方ではなくて、いつか復活の命を与えられるという、このわたしたちに対する約束。そのことをわたしたちはしっかりと信じ、心に受け止めるときに、神様に向かって、神様に感謝して、神様のため、隣人のために、生きることができるようになるのです。わたしたちは、この地上の生涯がたとえどんなに苦しく、悲しく、明日が見えない状況の中にあっても、復活の希望を光として、神様への奉仕、隣人への奉仕に生きることができるのです。 閉じる