2023.6.25 聖霊降臨節第5主日礼拝
出エジプト記 第19章1~8a節
ローマの信徒への手紙 第5章6~11節
マタイによる福音書 第9章35節~38節
本日は、「マタイによる福音書」を中心に言葉を聴いてまいりましょう。
きょうの聖書箇所の最初のところに「イエスは町や村を残らず回って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、ありとあらゆる病気や患いをいやされた。」とあります。あるところで、イエス・キリストに救っていただこうと、多くの人たちが集まってきていました。そのような群衆を前にして、イエス・キリストは、「飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた。」と36節にあります。「飼い主のいない羊のように」とあります。羊という動物はとても弱い動物なので、群れの中にいて羊飼いに養われなければ、生きていくことができません。自分の力で、水飲み場や草のあるところに行くことはできません。群れからはぐれてしまうと、たちまち狼などの野獣に襲われる危険があるのです。羊飼いは、そのような弱い羊を命がけで守るのです。主イエスが「飼い主のいない羊のように」、その群衆を見られたということです。その群衆は弱り果てて打ちひしがれている。そのようにイエス・キリストの目には映ったのです。わたしたちもまた、そのように弱い羊の一匹一匹であると、聖書では教えています。 「深く憐れむ」という原典の言葉は、もともと内臓、腸、はらわたを意味する名詞から作られている言葉です。はらわたがよじれるように、はらわたがちぎれるほどに深く憐れむ、そういう意味があります。わたしたち日本人にとっては、また中国の人にとっては「断腸の思い」という表現があります。はらわたが断たれる、腸が断たれるという意味です。 主イエスは、それほどに、人を深く憐れまれる御方なのです。これはそのようにわたしたちは、イエス・キリストの目から見れば、本当に憐れむべき存在であるということを意味しています。わたしたちは、罪を負っている者たちです。人を愛そうと思っても、愛するどころか憎しみ合い、時には傷つけ合い、殺し合いまでしてしまう、そういう者たちです。そのような群衆を見て、イエス・キリストは、弟子たちに「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように。収穫の主に願いなさい。」と言われました。この箇所をわたしたちは読むときに、どういうことをまず最初に感じるでしょうか。いま教会では、(教会だけではなく、仏教のお寺もそのようですが)礼拝に集まる人が少なくなっています。そのことからすれば、主イエスがここで「収穫は多いが、働き手は少ない」とおっしゃっているが、本当にそうだろうかと思ってしまいます。「収穫は多い」とおっしゃるけれども全然多くないのではないかということなのです。結論的に申しますと神様の豊かな憐れみ、その憐れみにあずかる、救いにあずかるということが、ここで言われている「収穫が多い」という意味なのです。本当にその豊かな収穫、豊かな恵みがそこにあるということなのです。その恵みにあずかるために、一人でも多くの働き手が必要です。その働き手が一人でも多く起こされるように、収穫の主である神様に祈り願いなさいということを、ここで主イエスはおっしゃっているのです。 ところで、この「憐れまれる」という言葉は、はらわたがちぎれるほどに、イエス・キリストがわたしたちを憐れんでくださるということであると申しました。それほどまでに人に憐れみの心を持つ。それはわたしたちに簡単にできることではありません。たとえば、ある人がわたしたちのところに来て、様々な悩みや苦しみを打ち明けて話をしてくれる。そういうときわたしたちは本当にその人を気の毒に思って、同情するわけですが、しかし、その同情といいましても、あくまで自分のテリトリーの外で相手に対して、対応しているということがないでしょうか。イエス様がお感じになったこの憐れみ、はらわたがちぎれるほどの憐れみというのは、わたしたちが決して真似ができることではありません。なぜなら、このことのためにイエス・キリストは十字架にかかってくださるほどのお方だったからです。飼い主のいない羊のように弱り果て、うちひしがれているわたしたちのために、わたしたちの傍らにいて、深く憐れんでくださる。はらわたがちぎれるほどに、わたしたちを憐れんでくださる。そのことができるのは、本当の意味でおできになるのは、イエス・キリストしかおられないのです。それは、イエス・キリストが十字架にかかられたからです。わたしたちがイエス・キリストと同じように、隣人に対して、深く憐れむということは到底できないことなのです。そのときにわたしたちは、自分たちの無力感を味わわされるのですが、しかしそのようなわたしたちでも主の十字架を仰いで、その深い憐れみによりすがって、感謝して生きることはできます。そのことこそがわたしたちに求められていることなのです。 わたしたちの救いのために苦しまれ、十字架にかけられて殺されてしまう。それほどの深い憐れみをお示しになるお方。そのお方が今でもわたしたちの傍らにいてくださって、わたしたちを深く憐れんでくださる、慰めを与えてくださるのです。そのことがわたしたちにとっての救いなのです。このことは、苦しみ悩みの中にあるわたしたちにとってまことに大きな慰め、恵みです。救いとはそのようにしてくださる主のみ跡に従って生きるということなのだと聖書では教えています。一人でも多くの人々に、そのことが伝わるように、わたしたちも祈っていかなければなりません。そのための働き手が起こされるように、そしてわたしたちもそのみ業の端に繋がることができるように祈っていきたいと思うのです。わたしたちが、ここで神様から語りかけられているのは、そのような豊かな神様の恵み、神様の恵みのみ業に、わたしたちもまた連なることができるように、そして一人でも多くの人々がそのみ業のために働くことができるように、働き手が起こされるように祈り求めていくということなのです。 閉じる