2023.6.18 聖霊降臨節第4主日 春の特別伝道集会礼拝
ルカによる福音書 第15章11節~32節
きょうの聖書のお話で放蕩息子が出てまいります。その息子が親から財産をせしめまして、親の目が届かない遠いところに旅をして、その財産をお金に替えて、放蕩の限りを尽くした結果、本当に底辺の、これ以上落ちぶれた生活はないというようなところにまで彼は自分の身を落としてしまいました。そこで彼は、ふと我に返ります。実家の父のところでは、雇い人がいて、あり余るほどパンがあるのに、わたしはここで餓死しそうだと、ふと我に返るわけです。彼は実家に帰ろうと決心したのです。それから、帰ったらお父さんになんと言おうか、と考えました。18節19節に「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください」とあります。父の実家に帰ったら、そういうふうに父に言おうと、彼は思ったのです。実家に帰る道すがら、おそらく彼は、何回も何回もそのセリフを心の中で繰り返したことでしょう。そのようにして実家に向かって歩いたところ、そして実家に近づいてきたところ、「まだ遠く離れていたのに、父親が息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。」とあります。父親は、その放蕩息子を叱りつけるどころか、息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻したのです。そしてその息子のために盛大な宴会を催します。このことを見て、その息子の兄が、これは本当に理不尽なことだと思って怒りました。その文句を言う兄に対して、31節ですが、『子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ。だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか。』とまでこの父親は言うのです。この兄は自分の弟を赦すことができませんでした。この兄の怒りはわたしたちの目にはもっともなことだと思われますけれども、この父親の愛情を思うとき、この兄の心の狭さを指摘せざるをえません。
この父親、あり余るほどの異常とも思えるほどの愛情を息子に注ぐこの父親は、神様のことを表しています。そして、この二人の息子は、わたしたちのことを指しています。わたしたちは、これを自分のこととして聞かなければなりません。異常とも思える、あり余るほどの愛情を息子に注いでくださる神様。その神様のことがここで記されているわけです。神様は、わたしたちを赦し愛してくださっている。わたしたちには、もともと罪の汚れが染み込んでいます。どんなに罪を犯さないようにしようと思っても、罪を犯してしまう。大きな罪を神様に対して犯し続けているわたしたちです。この放蕩息子のたとえで出てきておりますこの弟のように、神様に対して、そしてに隣人に対して、多くの罪を犯し続けているわたしたちです。その罪は必ず罰せられなければならない。犯した罪は償わなければならないのです。しかし、その罪は余りにも重すぎてその償いをわたしたちは自分ですることができません。神様は正しいお方でありますから、犯された罪は、罰せずにはおかれません。それが神様の正しさということなのですが、しかし、そのために神様は、まことに驚くべきことに、わたしたちに刑罰を与える代わりに、自分の愛する子どもである、イエス・キリストを十字架にかけられる、死刑の刑罰を与えるということをなさったのです。とは言え「わたしはそんなに大きな罪を犯していない」ということを思われる向きもあるでしょう。罪が赦されるということ、罪の赦しというのはどういうことなのか。今ひとつピンとわからない、ということもあろうかと思います。わたしたちが実際にだれかを傷つけたり、何かをしでかしてしまう。そういうことに対するお赦しということであれば、そういうことなのかなと思ってしまうことはあるでしょう。もっと言えば、その罪を犯し続けてしまう、どうしようもないわたしたちを神様はそのままで、愛し、受け容れてくださるということ、そのことがその罪の赦しということの根本にあるのです。わたしたちが明白に犯してしまう罪、人に迷惑かけたり、傷つけたりする罪に対する赦しということ、そういうこととともにもっとわたしたちが、身近に、もっと切実に感じなければならないこととして、日々わたしたちが自分自身を裁いてしまうということ。なぜあのときに、あのようなことをしでかしてしまったのか。わたしはどうしようもない人間だと言って、良心の刃で自分自身を切り刻んでしまう。隣人を裁いてしまう。自己嫌悪に陥ってしまう。その中でわたしたちは、一歩も動くことができないということも起こってきます。しかし、神様は、そのようなどうしようもない罪深いわたしたちをも、そのままで愛し受け容れてくださっているのです。そのことの根拠として、イエス・キリストの十字架の苦しみと死があるのです。そのような大きな犠牲が払われて、わたしたちは神様に赦されているのです。本当にどうしようもないわたしたちですけれども、神様はわたしたちをそのままで受け容れてくださる。罪を赦し、愛してくださっているのです。わたしたちがこれこれの立派なことをしたから、神様に愛されるのではありません。そのことが条件で神様に赦しを与えられるのではない。わたしたちの側に何の立派なところもなくても、何の功績もなくても、無条件でわたしたちを愛し、受け容れていてくださる、それが、深いあまりにも深い天の父なる神様の愛ということなのです。そのように、わたしたちが赦され、わたしたちが受け容れられている、愛されているということにわたしたちが気づくならば、わたしたちは自分の殻に閉じこもって、身動きができない状態から、そこから立ち上がって、すべてを神様におゆだねして安心して歩むことができるのではないでしょうか。それこそが神の救いなのです。その救いの道を歩むことができるように、わたしたちはみ言葉にしっかりと聴き、神様を信じていつも祈ってまいりましょう。 閉じる