2023.6.4 聖霊降臨節第2主日礼拝
詩編 103篇1~22節
ローマへの信徒への手紙 第3章21~26節
マタイによる福音書 第7章21~27節
                          

「罪のただ中で」

 本日はローマの信徒への手紙を中心に、み言葉に聴いてまいりましょう。

 この手紙が書かれた当時ユダヤ教がパレスチナでは支配的でありました。この手紙の著者であるパウロもかつてはユダヤ教を熱心に信じていた人です。その教えというのは、わたしたちが今、手にしております聖書のうちの旧約聖書の部分、おもにモーセ五書と言われていたところがその中心です。創世記から始まって、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記と呼ばれている、そこで記されている律法の教え、神が教えということですが、ユダヤ教ではその教えをとても大切にしてまいりました。人が救われるのは、その律法を守ることによってである、とされていました。しかし、使徒パウロは、この手紙でその律法を人間が忠実に守ることはできないのだと結論付けています。人間には罪がある。アダム以来の罪の汚れが、人間に付いている。汚れがある限り、完全に律法を守ることはできない。きょうの聖書箇所の前の3章10節にありますが、「正しい者はいない。一人もいない。」と詩編を引用してパウロは述べています。

 さらに20節に、「なぜなら、律法を実行することによっては、だれ一人神の前で義とされないからです。」とあります。神様の教え、その教えを守ることはできる人は誰一人いない。人間はとても罪深い者であるので、律法を守ることはできないのだと、ずっとそのように、このローマの信徒への手紙の最初から、パウロは述べてきています。それでは、人間が救われるということはどういうことなのか。律法を守れないということなのであれば、人間はどうしたら救われるのかということが、今日のところの中心です。

 25節、26節に、「神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。それは、今まで人が犯した罪を見逃して、神の義をお示しになるためです。このように神は忍耐してこられたが、今この時に義を示されたのは、御自分が正しい方であることを明らかにし、イエスを信じる者を義となさるためです。」とあります。イエス・キリストは十字架にかけられて処刑されました。そのことについてパウロは、主は罪深いわたしたちのために、わたしたちの身代わりになって十字架にかけられた。それは、わたしたちの救いのためであったとしています。処刑されるべきは、本来はわたしたちであったのに、その身代わりとなってイエス・キリストが十字架にかかってくださった。神の前に罪を犯してしまう者、その者に対してそれを罰するのが神の義しさです。

 本来であれば神の正しさ、神の義によって、わたしたちは滅ぼされてもいいような者たちでありましたが、24節にありますように「ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。」義とされるという言葉、これは神の義しさということですが、それは「裁く」という意味だけではなく、わかりやすく言えば、「神の救い」ということなのです。神様の救いが与えられるという意味があるのです。キリスト・イエスによる贖いの業、キリスト・イエスが、わたしたちに代わって神に対して償いを果たしてくださるということ、罪の力から解放してくださるということ、それらのことが、愛する御子イエス・キリストを十字架にかけるという、神の業、神の恵みによって果たされたということなのです。神の義とはそういうことなのだと、ここでパウロは述べています。それが神の愛ということなのです。

 神の義というのは、わたしたちの代わりに愛する御子イエス・キリストを十字架にかけるということ、そういうことで、神様の義が果たされる。実は神の救いというのはこういうことなのです。慈しみ深い神様、その神様が果たされる義ということなのです。そのことが無償で、ただでわたしたちに与えられるのです。

 それはどのようにしてでしょうか。

 26節に「イエスを信じる者を義となさるためです。」とあります。イエス・キリストを信じる、その者を義となさる、赦す、そのようにして、わたしたちが救われるということなのです。それでは、神を信じる、イエス・キリストを信じるというのはどういうことなのでしょうか。神様の前で、正しいことができないわたしたち。神の戒めを守ることができない、多くの罪を犯してしまう、お互い愛し合うどころか、傷つけ合ってしまうわたしたちです。そのようなわたしたちをそのままで愛していてくださる。わたしたちが自己嫌悪のただ中にいるようなときでも、そのままでわたしたちを受け入れてくださる、義としてくださる、赦してくださる。それが神の救いということなのです。ルカによる福音書の中にありますが、主イエスが座っておられたところに、子どもたちを連れて親が集まってき来ました。乳飲み子もいました。よちよち歩きの子どもたちが集まってきた。それを見て、弟子たちはそれを阻もうとする。先生の邪魔をしてはいけないと言って、親たちをとがめようとする。そのことをご覧になって、主イエスは弟子たちを叱るわけです。そのままにしておきなさい。私のところにこさせなさいと、主イエスは弟子たちに命じられる。おそらく、主イエスは、神の国はこのような者たちのものであるとおっしゃった。子どもというのは、何もできません。親の愛情がなければ、一日も生きていくことはできない。親に食べさせてもらう。子どもはただ親に付いていくだけです。親が差し出す両手にすがりつくだけなのです。子どもはなこ親に褒められるようなことをした、ということで親から愛情を受けるのではない。すでに愛されています。ただ、子どもは親の愛を受けるだけです。ついていくだけなのです。信じるとは、神様を信じるということは、イエス・キリストを信じるというのはそういうことでしょう。ただ空の手で神の恵みを受けるだけです。神様についていくだけです。神様に信頼してすべてを神様にお委ねして生きていく。そのことが信じるということなのです。わたしたちはそのことをしっかりと心に刻んで、主イエスを信じて、罪の赦しの恵み、神の救いの恵みに感謝して生きることができるように祈り求めてまいりましょう。 閉じる