2023.5.21 復活節第7主日
詩編 第47篇
エフェソの信徒への手紙 第1章17~23節
使徒言行録 第1章1~11節
                          

「主イエスの昇天」

 きょうは「主イエスの昇天」ということについて使徒言行録を中心に聖書の御言葉に聴いてまいりましょう。

 きょうの聖書箇所の3節に「イエスは苦難を受けた後、御自分が生きていることを、数多くの証拠をもって使徒たちに示し、四十日にわたって彼らに現れ、神の国について話された。」とあります。主イエスは復活なさって、ただその御姿を現されただけではなくて、弟子たちに神の国について話されたと聖書は語っています。神の国について話されたということは、神様のご支配について、神様のみ心について、終末について、弟子たちに話されたということなのでしょう。そして、4~5節に「エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい。ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなたがたは間もなく聖霊による洗礼を授けられるからである。」とありますが、これは主イエスの昇天の後に起きたペンテコステの出来事を指していると言ってよいでしょう。主イエスによる救いの御業は、十字架・復活で終わったのではなく、聖霊降臨の出来事へとつながり、教会の時代へ、いまの時代へと続いているのです。このペンテコステの出来事へとつながるためには、どうしても主イエスは天に昇られなければならなかったのです。それは、主イエスがいつでも誰にでも共におられるためです。目に見ることの出来ない聖霊というあり方で、わたしたちと共におられるためには、主イエスは天に昇らなければならなかったのです。

   主イエスはペンテコステの出来事を予告され、そして弟子たちが見ている中、天に上げられて行かれました。この昇天という出来事は、復活の主イエスにおいて起きたことなのです。わたしたちと同じ体をもって天に昇ったということではないのです。復活の体、復活体としての主イエスが天に昇られたということなのです。この昇天という出来事がわたしたちに示していることは、主イエスの復活というのは、単なる肉体が生き返ったということではないということなのです。それでは少しもありがたくも嬉しくもないし、わたしたちの救いの根拠にもなりません。主イエスの復活というものは、死を打ち破り、復活の体という永遠の命の体をもってよみがえられたということなのです。それは、神の独り子としての栄光であり、まことの神としての栄光の体なのです。ですから、主イエスの昇天という出来事は、主イエスが誰であり、復活とはどういうことであるかを、わたしたちに明らかに示す出来事なのです。

   復活された主イエスは、その復活の体をもって天に昇られました。このことについて使徒信条は、「天に昇って、全能の父なる神の右に座しておられます。」と告白しております。主イエスが昇天されたということは、まるで「かぐや姫」が月に帰る場面のように、おとぎ話の世界の話ではないのです。主イエスが復活の体をもって天に昇られたということは、天の父なる神様のところにおいて、父なる神様と共に、父なる神様のように、全てを知り、全てを支配されているということを示しているのです。昇天とはそういうことなのです。主イエス・キリストは今どこにおられるのでしょうか。復活の体を持つ方として天におられ、父なる神様と共に、同じ力、同じ権威をもって、全てを支配しておられるのです。主イエスは天に昇られることにより、まことの王、まことの主としての栄光の姿をわたしたちに示してくださったのです。主イエスというお方は、ただ素晴らしい愛の教えを与えてくれた偉い立派な人などという存在ではなく、この世界の全てを支配されるまことの王、まことの主であることを示されたのです。そして、主イエスはその全能の力、まことの愛をもって、聖霊を注ぎ、聖霊としていつもわたしたちと共にいてくださる方となってくださったのです。この主イエスの昇天の出来事に立ち会った弟子たちは、それが一体どういうことなのか分からずにいたに違いありません。彼らはただ、主イエスが昇って行かれ見えなくなった天を見つめるばかりでした。そこに、「白い服を着た二人の人」が現れます。この「白い服を着た二人の人」というのは天使、神の使いを意味しています。この時二人の天使は、こう弟子たちに告げたのです。11節「ガリラヤの人たち、なぜ天を見上げて立っているのか。あなたがたから離れて天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる。」主イエスは、天に上げられたのと同じ有様で再び来られると告げたのです。主イエスが昇天されたことを覚えるということは、主イエスが再びそこから来られる、再臨されるということを覚えるということになるのです。

   二千年前に主イエスがこの世に来られた時、主イエスはマリアからお生まれになりました。主イエスは、へりくだられて人間と同じ姿をとって、まことの人としてやって来られました。しかし、次に主イエスが来られるのは、そのような人間と同じ姿で来られるのではありません。主イエスが再び来られるのは、復活の体、永遠の命の体を持つ方として、神の独り子、まことの王、まことの主としての栄光を持つ方として来られるということなのです。それは、「生きている者と死んでいる者とを裁かれる」方として来られるということなのです。

 この主イエスの昇天という出来事は、主イエスの復活と聖霊降臨の出来事をつなぐ大切な出来事であり、主イエスというお方が何者であるかを示す、無視することができない出来事なのです。主イエスは天に昇られました。そして、今も天の父なる神様の右の座におられて、父なる神様と共に全てを支配なさっています。そして、主イエスはこの世の終わりの日にそこから来られ、全ての者を裁かれるのです。その日、全ての罪を赦されたわたしたちは、主イエスと同じ復活の体を与えられ、永遠の命に生きる者とされるのです。その日を待ち望みつつ、キリストの証人としてふさわしく、それぞれの場においてこれからの日々を生きることができるように祈り求めてまいりましょう。

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