2023.5.14 復活節第6主日
申命記 第6章4~9節
ペトロの手紙一 第3章13~22節
ヨハネによる福音書 第14章15~24節
                          

「主イエスを愛する人」

 本日は、ヨハネによる福音書を中心にみ言葉に聴いてまいりましょう。

 本日の聖書箇所の15~17節に「あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る。わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。この方は、真理の霊である。」と主イエスはおっしゃっています。真理の霊、弁護者と主イエスはおっしゃっています。これは聖霊のことです。父なる神様、子なる神様そして、聖霊なる神様、すなわち三位一体なる神をわたしたちは信じ、そのことこそが救いであると告白しています。

 イエス・キリストがここで真理の霊すなわち聖霊ということをお話になりました。なぜここでイエス・キリストがそのことをここで述べておられるのかと言うと、この後、この説教がなされた次の日に、イエス・キリストは捕らえられて、十字架にかけられ、殺されてしまうわけです。わたしはまもなくこのところからいなくなるけれども、天の父なる神様が弁護者を使わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。この方は真理の霊であると、主はおっしゃいます。真理とは神様のことですから、「真理の霊」とはすなわち聖霊のことなのです。弁護者といいますのは、法廷で言えば弁護士いということです。口語訳聖書では、「助け主」とも訳されておりました。

 聖霊が、わたしたちの人生において、悩み、苦しむわたしたちのところに来てくださって、わたしたちを助け、慰めてくださる。イエス・キリストが聖霊において、わたしたちのところに来てくださる。そのことを別れを告げる前に、イエス・キリストが天に上げられる前に、弟子たちに説明してくださる、約束してくださったのです。それは、弟子たちとともにわたしたちにもまたその約束が与えられているということなのです。

 ところで、今日、皆さんと読んでまいります最初のところですが、「あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る。」とあります。この「わたしの掟」とはどういうことなのでしょうか。それは、前の章の、13章の34節以下にありますが、「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。」とあります。イエス・キリストの「掟」とはこのことです。互いに愛し合うということ、そのことが掟として、わたしたちに与えられています。愛し合うということ、愛するということは聖書におきまして、よく出てまいります。キリスト教は、別名の「愛の宗教」であると言われるほどです。この愛というのは、汝の敵を愛せよとあります通り、人を好きになるということとは違います。わたしたちは、自分に好意を示してくれる人、自分に気の合う人と付き合いたいと思います。お互い好意を持って接する。それも一つの愛の交わりということでありますが、聖書では、愛するということは、好きになるということとイコールではないということを教えられているのです。自分が敵と思う人をも愛するということなのです。

 イエス・キリストはわたしたちに互いに愛し合いなさいと命じておられる。愛というものはなかなか労力のいることです。エネルギーもいる。しかし、イエス・キリストはわたしたちにあえて、そのことをお命じになる。わたしたちは、自分の道徳心によって、そのことができるのでありましょうか。お互い愛し合って生きようと思っても、自分たちの中には、元々そのような愛がないということに、わたしたちは気づかされるのです。

 わたしたちの決意や決心によっては、そのことは長続きしません。しかし、聖書の教えによれば、わたしたちが神様を愛するよりもまず先に、神様がわたしたちを愛していてくださっている。その愛の具体的な表れが、最も大きな表れが、愛する御子イエス・キリストをわたしたちの救いのために犠牲にしてくださったということなのです、わたしたちが神様を愛する前に、わたしたちが隣人を愛する前に、神様がわたしたちを愛していてくださる。そのことに基づくからこそ、わたしたちは隣人との間で、愛をもって生きることができるようになるのです。そうさせていただけるのが、聖霊なる神様のお働きということなのです。

 真理の霊すなわち、聖霊という形をとって、聖霊においてイエス・キリストがわたしたちのそばに来てくださる、隣人との間に来てくださる。その聖霊の働きによってわたしたちは、自分の力だけではできないところの互いに愛し合う愛、隣人愛をもって生きていくことができるのです。

 それでは、そのような聖霊の働きをわたしたちが自分たちが望めばいつでも神様からいただくことができるのでしょうか。わたしたちは、神様をコントロールすることはできません。聖霊の働きも、神様のお恵みによることなのです。しかし、だからといって、わたしたちはなすすべもなく、聖霊の働きをただじっと口を開けて、待ち続けるしかないのでしょうか。ある神学者が申しました。聖霊の働きをわたしたちの力でコントロールすることはできないけれども、聖霊の力が働くところにわたしたちは身を置くことはできる。それが教会です。大切なことは、教会の礼拝において神様のみ言葉にしっかりと聴いて、わたしたちの信仰が起こされ、そして聖霊の力がわたしたちの内に、より働きやすくするために、神様に向かってわたしたちの心を開いていく。そのことによって、聖霊の働きが、よりわたしたちに働きやすくなるということなのです。わたしたちの力だけでは決して主イエスを愛することも、隣人同士愛し合うこともできません。それはまさに、聖霊のお働きなのです。わたしたちが主イエス・キリストの与えてくださる掟、互いに愛し合いなさいという掟を守って生きることができるように、聖霊の力をこい求めて行くことができるように、わたしたちはみ言葉にしっかりと聴いて、わたしたちは心を開いて、聖霊を待ち望んでいくことができるように祈ってまいりましょう。

  閉じる