2023.5.7 復活節第5主日
イザヤ書 第30章18~21節
ペトロの手紙一 第2章4~9節
ヨハネによる福音書 第14章1~12節
                          

「道、真理、命であるキリスト」

 本日は、「ヨハネによる福音書」を中心に言葉に聴いてまいりましょう。

 本日皆さんと聴いてまいりますのは14章ですが、その14章から始まる16章までの箇所は、「告別説教」と呼ばれている所です。イエス・キリストが、捕らえられて十字架にかけられる前に、弟子たちに向かって、長い説教と言える言葉を主イエスは述べられました。その長い説教の最初がこの14章の1節からということになります。「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。」。イエス・キリストは、弟子たちに向かっておっしゃいます。

 なぜ弟子たちは心を騒がせているのでしょうか。主イエスは、13章36節にありますように、シモン・ペトロの 「主よ、どこへ行かれるのですか。」という問いに対して、主イエスが「わたしの行く所に、あなたは今ついて来ることはできないが、後でついて来ることになる。」と答えられたというようなことがあり、弟子たちは不安感を抱いていたのです。そのように心を騒がせている弟子たちに向かって、イエス・キリストが、言葉を述べられています。2節に「わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える、こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる」とあります。イエス・キリストがこの後、十字架にかけられ、死なれて、復活なさるわけですが、復活された主イエスが、その後天にのぼられる。そして神様の右の座におつきになる。その所で、わたしたちのために場所を用意していてくださる。準備していてくださる、というのです。その準備が終わったらば、わたしたちの所に戻ってきてくださる。これは何を表しているのでしょうか。イエス・キリストが十字架にかけられ、死なれ、復活なさって神様の右の座に今、いらっしゃる。しかし、いつの日か、イエス・キリストが再びわたしたちの所へ目に見える形で戻ってきてくださる、と聖書には記されています。それが終わりの日、主が再び来られる日。「再臨」、再び臨むと書きますが、再臨の日ということなのです。そのとき、この世の全てのものが終わり、新しい天と、新しい地が作られる。主がわたしたちの目の涙を全て拭ってくださり、苦しみも悲しみも、嘆きもない。そういう新しい天と、新しい地が作られる、そのことが聖書に記されてあり、わたしたちに約束されていることなのです。その日は、救いが完成されるときです。神の国が完成されるのです。最終的なわたしたちの救い、そのことが、終わりの日の希望ということなのです。終わりの日に、イエス・キリストが再び来られて、わたしたちのために、場所を用意してくださって、わたしたちが復活の命、永遠の命を与えられて生きていくことができる。その場所を作っていてくださるということが、わたしたちにとっての最終的な救いであり、希望なのです。わたしたちはこの地上の生涯におきまして、どんなにつらく苦しいことがありましても、わたしたちがそのような最終的な救い、希望が与えられているのであり、わたしたちが、そのことを信じて歩むときに、この困難なことの多いこの人生を、諦めることなく歩んでいくことができる。そのことを今日の所の最初で主イエスは、約束してくださるのです。

 そして、さらに4節にありますけれども、主イエスが「わたしがどこへ行くのか、その道をあなたがたは知ってる。」と謎めいたことをおっしゃる。そのことに対してトマスは、「主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません。どうして、その道を知ることができるでしょうか。」と質問いたします。その質問に答える形で、イエス・キリストはとても大切なことをおっしゃる。6節ですけれども、「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」ここは原文では、この「道、真理、命」というこの単語の前に、英語で言えば、Theという定冠詞がそれぞれついています。救いの道はこの道だけである。一般的ないろんな道がある。というようなことを言っているのではなくて、わたしこそ道そのものであると、おっしゃっている。わたしこそ、ただ一つの真理であり、命であるとおっしゃっているのです。

 その「道であり、真理であり、命であられる」お方。そのお方そのものに、わたしたちはつながり続けることによって、終わりの日、救いの完成されるその日に向かって歩むことができると言えるのです。わたしたちの歩む道は、迷いの多い、悩みの多い道です。この先どういうことが待っているのかわからない。「一寸先は闇だ」という言葉もありますが、明日のことはわたしたちにはわからない。わたしたちには、先のことはわからないのです。心配し始めたら、本当にどうしようもなくなってしまいます。しかし、「道であり、真理であり、命であられる」イエス・キリストにとどまり続けていれば、不安も消えていくはずです。先ほど、旧約聖書のイザヤ書をお読みいたしました。30章の21節には、「あなたの耳は、背後から語られる言葉を聴く。「これが行くべき道だ。ここを歩け。右に行け、左に行け。」と。」とあります。悩み多い、不安の多いわたしたちでありますけれども、「道であり、真理であり、命であられる」お方につながり続けているならば、このようにして、その都度、わたしたちが行くべき道を示されていくのです。わたしたちは、そのようにして、これからの日々を救いの完成に向かって、終わりの日の希望に向かって、希望を持ってわたしたちは歩んでいくことができるのです。そのことを確信して、「道であり、真理であり、命である」お方にどこまでもつながり続けて、行けるように祈り求めてまいりたいと思うのです。

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