2023.4.30 復活節第4主日
エレミヤ書 第23章1~4節
ペトロの手紙一 第2章20b~25節
ヨハネによる福音書 第10章1~10節
                          

「羊飼いと盗人」

本日は、「ヨハネによる福音書」を中心にみ言葉に聴いてまいりましょう。

 きょうのところでは、羊が出てまいります。羊というのは、とても弱い動物です。群れから離れて、一匹では、生きていくことができない。群れからはぐれてしまいますと、自分で牧草などの草を食べに行くことができません。はぐれてしまいますと、狼などの野獣に襲われてしまう。そのため、羊飼いによって群れをつくって、水飲み場や牧草が生えているところに導かれる。羊飼いによって、狼などの野獣の攻撃から身を守ってもらう。そういう弱い動物です。しばしば、この弱い羊によってわたしたちのことが例えられております。そういうことが聖書では、各所で記されております。一方、羊飼いはイエス・キリストであり、神様である。そのようにたとえ話として聖書には記されております。

 3節に、羊は羊飼いの声を聞き分けるとありますが、なぜ羊が羊飼いの呼び声を聞き分けるのでしょうか。それは基本的には羊と羊飼いとの間に厚い信頼関係があるからということでありましょう。羊飼いは夜も昼も、羊とともに生活を共にしております。寒い冬の夜も一緒に行動を共にする。羊飼いという仕事は、とても厳しい仕事です。冬の夜も時には、野宿をして羊と生活をともにする。狼などの野獣の襲撃を防がなければならない。命がけで羊を守らなければならない。時にはそのために、自分の命が失われるということもあったそうです。命がけの仕事なわけです。羊は、その羊飼いの注ぐ愛情に応えて、羊飼いの声を聴き分ける。羊飼いが羊の名前を呼んだときに、その羊飼いについていく。他の人から呼ばれても、決してついていくことはない。今日のところで「羊の囲いに入るのに、門を通らないでほかの所を乗り越えて来る者は、盗人であり、強盗である。」とあります。羊飼いがちゃんとその囲いの門を入ってくるのに対して、強盗や盗人はそういう門があるのにもかかわらず、柵を乗り越えて入ってくる。そういう盗人や強盗の声は羊たちは、耳に入るのですけれども、ついて行くことはないのです。

   それでは、その話をイエス・キリストはどういう人たちに向かって話をしたのでしょうか。それは6節を読むとわかります。「イエスは、このたとえをファリサイ派の人々に話されたが、彼らはその話が何のことか分からなかった。」とあります。この話は、前回のところと、聖書の前のところと繋がっているのです。ファリサイ派の人たちと話をしていたその延長で、今日の聖書の箇所が出てきます。「彼らはその話が何のことかわからなかった。」とあります。その話がどういうことであったのか、ということですが、これは何を意味しているのでしょうか。前のところで、9章は生まれつき盲人の人を癒すという話でありました。生まれつき盲人であった人に、イエス・キリストが唾で土をこねてその人の目に泥をお塗りになったところ、目が見えるようになった。ファリサイ派の人たちはそのことに対して、なぜ、あなたは見えるようになったのかということを、しつこく問いただしたのですが、その目を開けていただいた人は、よくわからないと答えるのです。しかし最終的には、その目を開けてくださった方、そのお方こそ救い主である、その方を救い主として信じますと、信仰の告白をいたしました。そのことが、このファリサイ派の人たちには、全然見えていなかった。目の見えない人を救いに導くのが宗教指導者であるファリサイ派の人たちの役目であったのにもかかわらず、ファリサイ派の人たちはこの目の見えなかった人を追い出すということをいたしました。まさにこのファリサイ派の人たちは、弱い羊であるこの目を開けていただいた人に対して、羊を追い散らすような盗人や強盗のようなことをしたということを、主イエスはたとえで話をされたのですが、そのことの意味をこのファリサイ派の人たちわからなかったということなのです。

 3節に「羊はその声を聞き分ける」とあります。羊は、羊飼いに対して厚い信頼を持っておりましたので、その羊飼いの呼ぶ声に聞き従う。ついて行く。信頼関係があるからこそ、羊飼いの声に羊はついて行くということなのです。門から入らないで、柵から入ってくる強盗や盗人の声を聞くことなく、救い主であられるイエス・キリストのみ言葉に、しっかりとついていくようにという、主イエス・キリストのわたしたちに対するご命令がなされているということなのです。羊であるわたしたちに対して、イエス・キリストはそのようにしてわたしたちに命じておられます。わたしたちの日常生活におきましては、様々な声がわたしたちの周りに満ち溢れていると言っても過言ではありません。わたしたちはイエス・キリストのみ言葉、神のみ言葉に従って、この生活を歩んでいこうとしている信仰者の群れです。しかし、わたしたちは弱い者たちでありますので、時折、真の救い主であられる、真の牧者であられるイエス・キリストの言葉に聴こうとしないで、違う声に耳を傾けようとする。わたしたちを惑わすサタンの誘惑の声に耳を傾けてしまう。

 しかし、わたしたちの救いのために命を捨ててくださった羊飼いであられるお方。命がけで羊を守ってくれる羊飼いのように、わたしたちのために命を捨ててくださった、そのお方の声にしっかりと耳を傾けてことができるように、わたしたちはいつも祈っていかなければなりません。わたしたちを惑わす様々な声ではなく、わたしたちを救いに至らせてくださる羊飼いの、真の羊飼いのみ声をしっかりと聴き分けて、それを力として、わたしたちはその羊飼いについていく。み言葉にしっかりと聴けば、わたしたちはサタンの誘惑に負けることなく、救いに至る門を通っていくことができるのです。わたしたちは人生において、真の大牧者であられる主イエス・キリストのみ言葉にしっかりと聴いて、わたしたちが、命を豊かに受ける道、救いの道を歩むことができるように祈り求めてまいりましょう。

  閉じる