2023.4.23 復活節第3主日
列王記上 第17章8~16節
ペトロの手紙一 第1章17~21節
ルカによる福音書 第24章13~35節
                          

「開 眼」

 本日は、ルカによる福音書を中心に、み言葉に聴いてまいりましょう。  本日皆さんと聴いてまいりますこのルカによる福音書の箇所ですが、主イエスが十字架の上で死なれた三日目にエマオという村に向かって二人の弟子たちが歩きながら、十字架にかけられたイエス・キリストのことを話し合っていたとあります。「イエス御自身が近づいて来て、一緒に歩き始められた。」とあります。彼らは、しかし、その付いてきた人がイエス・キリストだということに全く気がつかなかったということなのです。不思議な話ではあります。イエス・キリストがその二人の弟子たちに、そのエルサレムでどういうことが起こったのかとお尋ねになったところ、イエス・キリストに向かって「あなたは、エルサレムにいながらそのことを知らなかったのか」と、驚きながら逆に尋ねたということなのです。彼らはイエス・キリストに対して、婦人たちが墓に行ってみたけれども遺体を見つけずに戻ってきたことを伝えたところ、25節にありますが、「そこでイエスは言われた。『物分りが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。』」と主イエスはおっしゃいました。これは大変厳しい言葉です。そのような弟子たちに向かってさらに、「そして、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明された。」とあります。そのことはすなわち、イエス・キリストが弟子たちに向かって説教をなさった、み言葉の説き明かしをなさったということを意味いたします。その後、弟子たちがイエス・キリストとともに、村に近づいたけれども、イエス・キリストは、その先を行こうとされる様子だったので、彼らはイエス・キリストを引き止めて、一緒に泊まることにし、そこでその家に入られまして、そして「一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。すると、二人の目が開け、イエスだとわかったが、その姿は見えなくなった。」とあります。主イエス・キリストが弟子たちの前に姿を現したり、その姿が消えてしまったり、本当にこれは不思議な話です。  わたしたちがはっきりと目に見え、触るというような形ではなくて、使徒パウロがコリントの信徒への手紙のなかで述べておりますが、主イエスやわたしたちは霊的な体で復活するということなのです。そのイエス・キリストのご復活ということが、霊的な事柄だということなのです。霊的な事柄というのは、誰の目にも明らかな形で、見たり触ってできるということでありません。霊的な事柄は、信仰の目が開かれなければ、それとわかるということはないのです。わたしたちが信仰の目をもって、イエス・キリストを信じ、信仰の目で見なければ、イエス・キリストの復活のお姿というのがよくわからないということなのです。そしてそれは、わたしたちが目に見える、見えないということをよりも、神様の方から、イエス・キリストの方から、わたしたちにその姿を示してくださるということなのです。神学の用語で、啓示という言葉があります。神の啓示、啓き示すと書きますが、神様の方から、そのお姿を啓き示してくださるということなのです。  聖餐はその起こされた信仰を維持していくために、わたしたちに与えられたものなのです。わたしたちは弱い者たちでありますので、わたしたちがしっかりと持っていると、思い込んでいることもあるかもしれませんが、信仰が揺らいでしまう。神様に対する疑いの気持ちも持ってしまう。そういうわたしたちに、神様はみ言葉を与えてくださる。礼拝におけるみ言葉の解き明かし。そして、聖餐によってわたしたちの信仰が保たれていくということが、ここで表されているのです。  32節に、「二人は、『道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか』と語り合った。」とあります。イエス・キリストの説教、イエス・キリストのみ言葉の解き明かしを聴くことによって、彼らは喜びに満たされました。わたしたちもまた礼拝の説教によって、そのような喜びに満たされるということがここで示されています。そういう意味では、説教者の責任は大変重いのですが、そのようにして、「心は燃えていたではないか」という喜びがわいてくる。しかし、わたしたちの信仰心はとても弱く、もろいものですので、いつまでもその心が燃えた状態であり続けることはなかなか難しいのです。わたしたちは、自分のことを考えてもそういうことは言えます。教会に導かれた当初は、とても新鮮な気持ちでいられたし、そして洗礼を受けた直後から、しばらくは「心が燃えて」いて、満たされた気持ちで、教会に通っていたわけですが、しかし、しばらくすると、熱が冷めてしまう、教会から足が遠のいてしまう、そういうことも起こってまいります。それはある意味、サタンの試みだということも言えると思います。サタンは、わたしたちの目を、信仰の目を閉じさせようとしています。わたしたちはその試みに、いつもさらされていると言っていいでしょう。そのわたしたちにとって、救いとなるのは、み言葉に聴くことと、聖餐にあずかることなのです。弱いわたしたちがサタンの誘惑から守られるために、神様はわたしたちにみ言葉の説教と聖餐を与えてくださいます。崩れやすいわたしたちの信仰心を支えてくださり、み言葉に聴くことによって信仰が起こされ(ローマの信徒への手紙 10章17節)ます。  復活の主が、わたしたちと共にいてくださって、わたしたちを支えていてくださる。そのことをみ言葉の説教に聴き、聖餐に与ることによって、確信する道がわたしたちには与えられているのです。神の救いとは、この復活のキリストとの交わりの中に、わたしたちが生かされるということを言うのです。この復活のキリストとの交わりの中に、いつまでもとどまり続けることができるようにいつも祈ってまいりましょう。   閉じる