2023.4.16 復活節第2主日
詩編 第98篇1~9節
ペトロの手紙一 第1章3~9節
ヨハネによる福音書 第20章24~31節
                          

「見ないで信じる者の幸い」

     本日は、「ヨハネによる福音書」を中心にみ言葉に聴いてまいりましょう。  本日皆さんと聴いてまいります聖書の箇所は、イエス・キリストが十字架にかけられまして、三日目に復活なさる、その日から八日後、足かけ八日後の出来事です。前回のところで、弟子たちの前にイエス・キリストが復活のお姿を現されたのですが、ディディモと呼ばれるトマスだけが、そこにいなかったとあります。この人に、その場にいなかったトマスいう人に、他の弟子たちが「主イエスがよみがえられたのだ」ということを伝えたかったはずです。その日のイエス・キリストが現れてから八日の後、すなわち次の日曜日に彼らはトマスを誘って誰かの家に集まったということなのです。そうしましたところ、イエス・キリストがそのお姿を現してくださいました。トマスに向かって、「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」と言ってくださったのです。トマスは、前の週の日曜日に、弟子たちの話を聴いても、主のご復活を信じることなく、「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」と言いましたけれども、イエス・キリストがそれを聴いていらっしゃったかのように、その場におられたかのようにお話になる。そのことにトマスは大変驚いたはずです。そのときにトマスは答えて、「『わたしの主、わたしの神よ』と言った。」とあります。彼は、あなたこそ、わたしの救い主であられる、主であられる、神であられるということを告白したのです。まさにこれは、「信仰の告白」ということです。キリストの教会は、このトマスの信仰の告白をこのときから大切にしてまいりました。わたしたちが洗礼を受けるときに、信仰の告白をいたします。イエスというお方こそ、わたしたちの救い主であられる。わたしたちの神であられるということをしっかりと言葉にして告白する、ということが求められています。 「信じる」とは、ただ心の中で、イエスというお方が救い主だということを心の中で唱えるということではありません。しっかりとそのことを口で言い表す。そういうことが求められているのです。そのことの先駆けが、疑い深いトマスと言われたその人の、この「わたしの主、わたしの神よ」いうこの信仰の告白、そこから始まっているということを、わたしたちは今日の聖書の箇所でしっかりと心に留めたいと思います。  わたしたちは、神様を、キリストを信じる群れとし、ここに集っている者たちですけれども、わたしたちはいつも神様を信じ、主を信じ、聖霊を信じて生きているとわたしたちは考えて日々を生きているはずです。しかし、わたしたちの日常生活において、その信仰が全く揺らぐことがなく生きているかというと、どうでしょうか。かなり心もとないところがあるのではないでしょうか。何か苦しいことや大変困難なことがあったときに、「本当に神様なんかいるんだろうか」と疑い、「神様がいらっしゃるなら、なぜこの世に悪があるのか。苦しみがあるのか。」などと考え始めると、神様に対する信仰が揺らいでしまうということも、起こってくるわけです。洗礼を受けた者でも、もちろんそういう疑いということが起きてまいります。しかし、そういう疑いを持てば、信者として失格であると簡単に切って捨ててしまうことは、果たして赦されることなのでしょうか。このトマスという人は、実はわたしたちのことでもあるのではないでしょうか。わたしたちは、日頃生きていく中で、そういう弱さの中で信仰生活を送ってまいります。そのようなわたしたちに対して、イエス・キリストは呼びかけていてくださいます。  「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」と29節にあります。ここで言われておりますこの「幸いである」という言葉。これは、ルカによる福音書やマタイによる福音書にもありますけれども、山上の説教と言われているところ、「心の貧しい人々は幸いである。」「今泣いている人は、悲しんでいる人は幸いである」とイエス・キリストがおっしゃった。その「幸いである」という言葉と同じ言葉が使われています。「幸いである」、祝福されているという意味になります。わたしたちは、見ないでも信じる信仰に生きているつもりでありますが、その信仰が時には揺らいでしまう。疑ってしまう者たちです。しかし、「そのあなたがたを幸いなものにしてあげる」と、イエス・キリストはわたしたちを招いてくださるのです。疑い深い弱いわたしたちでありますけれども、復活の主がわたしたちのすぐそばにいてくださる。そして、主の復活の命にわたしたちを与らせてくださる、その復活の主のお導きによって、見ないでも信じる者の幸いに生きることができるのです。具体的には、この礼拝の場に身を置き続けることによって、それが実現するのです。使徒パウロがローマの信徒への手紙の中で、信仰はみ言葉に聴くことによって、始まるとパウロは述べております。わたしたちは、主イエス・キリストのお姿をこの肉の目でじかに見ることはできません。しかし、パウロが述べておりますように、み言葉に聴くことによって、信仰が始まる、信仰が起こされる、特にこの礼拝の場に身を置き続けること、み言葉に聴くことによって、わたしたちは主にお目にかかることができるのです。主が、わたしたちの信仰を新たにし、信仰を起こしてくださる、わたしたちのもろい信仰心を立て直してくださる、新たにしてくださるのです。復活の主の命に生かされるものとして、わたしたちはその道を歩むことができるのです。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」そのようにわたしたちを、その幸いに生きることができるように、わたしたちを招いてくださる、その主の招きにお応えして、主のみ跡にどこまでも従っていくことができるように、祈り求めてまいりましょう。   閉じる