2023.4.9 イースター礼拝
詩編 第16篇10~11節
ヨハネによる福音書 第20章1~10節

                          

「主はよみがえられた」

     本日はイースター、復活節です。わたしたちの救い主であられる主イエス・キリストが十字架の上で死なれ、三日目に復活した、そのことをお祝いし、さらにそのことの意味をわたしたちは深く心に刻んで、感謝して礼拝をお献げするのです。  死んだ人が、よみがえる、復活するということ、とてもそんなことは信じられない、という人もこの世にはたくさんおります。しかし、聖書の言葉、聖書に盛り込まれている様々な所に記されていることを総合的に検証しましても、イエス・キリストがまさに死なれて、三日目によみがえられたということは、確かなことです。その復活の主イエス・キリストに出会った弟子たちのその後の人生、歩みを見ましても、彼らが死なれたイエス・キリストの幽霊や、幻を見たと錯覚して、彼らがその後の人生を歩んだのではないということが、聖書からはっきりとわたしたちは知ることができるのです。  この復活の出来事をまさに事実であると、わたしたちは捉え信じるということが、キリスト教の信仰のまさに核心と言っていいことです。イエス・キリストが復活されたということを信じることがないならば、キリスト教という信仰は成り立たないのです。それほどに復活は大事な出来事なのです。そのことをわたしたちはまさに今日、み言葉から聴くことができるのです。  きょうの聖書箇所で、マリアは主イエスが葬られた墓の中が空であることを、二人の弟子に伝えたところ、彼らはとても驚いて、とにかく走ってお墓に向かったとあります。そして墓に着いたところ、墓の中を見ると、亜麻布が置いてあった。亜麻布といいますのは、遺体を包んでいた布のことです。そしてさらによく見ると、イエスの頭を包んでいた覆いも置いてあった。イエス・キリストの遺体はどこにもなかったということです。8節に、それを見て、もう一人の弟子、イエス・キリストが愛しておられたもう一人の弟子と言われた人が、「見て信じた」とあります。この有様を見てこのもう一人の弟子は、イエス・キリストの遺体を誰かが持ち去ったのではなくて、復活されたのだということを信じた、ということなのです。なぜなら、イエス・キリストの遺体を誰かが持ち去ったのであれば、遺体を包んでいた亜麻布や、頭を覆っていた布を置いていくことは不自然なことであったからです。この状況を見るならば、イエス・キリストの復活したお姿を見なくても、いわば状況証拠ということですが、主イエスは復活されたに違いないと、この弟子は悟った、信じたのでありました。  わたしたちにはしかし、この9節を見ますと、矛盾するのではないかと思われるような記述があります。9節に「イエスは必ず死者の中から復活されることになっているという聖書の言葉を、二人はまだ理解していなかったのである。」とあります。この前のところで、弟子が墓の中を見て、主イエスが復活されたことを信じたとあるのに、何か矛盾するような記述です。昔から多くの学者が、このところをどのように解釈したらいいのかということを、様々に述べております。偉大な宗教改革者の一人とされておりますカルヴァンは、このところを解説して、「この弟子たちはこの状況を見て信じたけれども、まだ彼らの信仰は始まったばかりで、完成に至っていなかったのだ」と注解書の中で述べています。彼らはまだ、そのことについての認識があまりしっかりとできていなかったのではないか。彼らが復活ということの意味を、しっかりと理解するためには、聖書の言葉を理解しなければならなかったのではないか、とカルヴァンは解説いたします。しかし、カルヴァンがここで言いたかったことは、完璧に聖書の言葉を学問的に理解してからでないと、信じたとは言えないというようなことを言っているのではなくて、信じて教会に繋がって礼拝に出ていきながらも、徐々に聖書の言葉を理解していく。そしてまた信仰が深まっていく。そういうことを、カルヴァンは言いたかったのではないかと思います。  わたしたちがそのようにして信仰生活を送っていく中で、イエス・キリストが出会ってくださり、わたしたちに聖書の理解を促してくださり、わたしたちの信仰の成長も促してくださる。そのことによってわたしたちは、神の愛というものもわかってくるのです。それはわたしたちの自分たちの力だけではできないことです。十字架で処刑され、三日目によみがえられたイエス・キリストが、時間と空間の隔てを超えて、今わたしたちとともにいてくださる。これからも、復活の主がわたしたちをともにいてくださって、わたしたちの悲しみのとき、苦しみのとき、わたしたちの涙をぬぐってくださる。そして、わたしたちを助け起こしてくださる。そしてともに、わたしたちが背負っている重荷も、ともに背負ってくださる。そのことをわたしたちは、このイエス・キリストのご復活を信じることによって、そのことを確信することができるのです。そのようにしてわたしたちとともに、イエス・キリストが今も、そしてこれからもともにいてくださる。それは、イエス・キリストが復活してくださったからに他ならないのです。イエス・キリストは、三日目に復活されました。それは、わたしたちが抵抗することもできないような、大きな死の力を打ち破ってくださったということをも意味しています。その復活の主を信じるということは、わたしたちもまたキリストの復活の命に与るということも意味しています。イエス・キリストは、十字架の死から三日目によみがえられて、永遠の命に生きるお方となられたのです。わたしたちは必ず誰一人の例外もなく、この地上の生涯をいずれは終える者たちでありますが、わたしたちは必ず主イエス・キリストの復活の命に与って、イエス・キリストが再びこの世に来られる日。主の再臨の終わりの日には、必ずやわたしたちも復活の命をいただいて、永遠の命に生きる希望がわたしたちにも与えられているのです。そのことを信じて、今日からの日々を、困難の中にあっても、その困難を乗り越えていける、その力を与えていただき、希望を持って歩むことができる者となれるように祈ってまいりましょう。 閉じる