2023.4.2 受難の主日礼拝
イザヤ書 第50章4~7節
フィリピの信徒への手紙 第2章6~11節
マタイによる福音書 第27章32~56節
                          

「主イエスの十字架」

本日はマタイよる福音書を中心にみ言葉に聴いてまいりましょう。

 わたしたちは昨日まで受難節のときを過ごしてまいりました。きょうからイースターまでの一週間、教会暦では受難週と呼んでいます。

 きょう皆さんと聴いてまいりますところは、マタイによる福音書におきまして、一つのクライマックスの場面です。わたしたちの救い主イエス・キリストが、わたしたちにはとても想像もできない程の苦しみの中で十字架につけられて処刑される。そういう場面です。

 なぜ、イエス・キリストが、無実であられる全く罪のない方が、無実の罪で十字架にかけられねばならなかったのか。そのことはこの聖書の前のところでいろいろ記されております。そのことも詳しい経過の説明はいたしませんが、罪のないお方が十字架にかけられて殺されてしまう。この十字架の刑罰というのはまことに苦しい、残酷な刑罰でありました。この十字架の刑に処せられるというのは、強盗や政府の転覆を図る反逆者などという重罪人に限って適用されてい大変に苦しい刑罰でありました。

 39節から40節にその十字架にかけられたイエス・キリストの周りで、イエス・キリストを侮辱する人たちがいたとあります。39節に「そこを通りかかった人々は、頭を振りながらイエスをののしって、言った。『神殿を打ち倒し、三日で建てる者、神の子なら、自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い』」とあります。さらに41節には「同じように、祭司長たちも律法学者たちや長老たちと一緒に、イエスを侮辱して言った。『他人は救ったのに、自分は救えない。イスラエルの王だ。今すぐ十字架から降りるがいい。そうすれば、信じてやろう。』」そういうふうに主イエスを嘲り、侮辱したとあります。

 イエス・キリストはもちろん十字架から降りる力がある方でありました。神の子イエス・キリストですから、天の父なる神様にお願いすれば、一瞬にしてこの十字架から降りることができたはずのお方です。しかしそれにもかかわらず、イエス・キリストは十字架から降りられなかったのです。一般的に考えられる救い主とは、ここで十字架から見事に降りて見せる。そういうお方こそが、救い主であると考えられているのではないかと思います。しかし、イエス・キリストはそうはなさらなかった。

 なぜイエス・キリストがこの十字架から降りられなかったのだろうか、という意味をわたしたちはしっかりと受け止めなければならないと思うのです。イエス・キリストはあえてこの十字架から降りることはなさらず、苦しみの極みを味わわれて死に赴かれました。その十字架にかけることの原動力として大きな力になったのが、かつてイエスというお方を救い主と信じていたユダヤ人たちでした。彼らが主イエスを「十字架につけろ」と、このローマ帝国から派遣されたユダヤの総督ピラトに対して、叫んだのです。なぜこのかつては、イエスというお方を救い主として熱狂的に支持していた人たちが、十字架につけろと叫んだのか。それは主イエスが自分たちが期待していた救い主ではなかったからです。彼らは主イエスをローマ帝国の支配からユダヤ人を解放してくれる政治的な指導者だと期待していたのですが、主イエスはそのようなお方ではなかったのです。彼らはそのことに対して、大変大きな失望を感じまして、手のひらを返したようにイエス・キリストを憎むようになったのです。自分の願望が聞き入れられなければ、途端に自分たちが期待していたその人に憎しみを持つ。わたしたちはそのような自己中心的な生き方をしてしまう。自分が絶対になって、他人を非難し陥れようとする。そういう自己中心的な存在です。それこそが聖書で言われているところの罪ということです。この罪にまみれたユダヤ人たちが、キリストを十字架につけろと叫びました。この聖書の記述でわたしたちはそれを読むことができるわけですが、しかし、わたしたちはただ傍観者としてそれを見ていることができるのでしょうか。わたしたちは決して傍観者ではなくて、「十字架につけろ」と叫んだその人たちは、実はわたしたちのことなのではないでしょうか。その深い罪を負ったわたしたちによって、主イエスは十字架につけられたのですが、無実のお方がそのようにして十字架につけられ殺される。黙ってその刑罰をお受けになる。本来であれば、十字架につけられなければならないのはわたしたちであったのです。深い、あまりにも深い罪を負ったわたしたちこそが本来であればその罪の責任を背負うはずであったのに、その罪の責任を背負ってイエスというお方が、わたしたちの想像もできないような苦しみを負って十字架という刑罰を受けられて死なれたのです。主イエスがわたしたちの身代わりになってくださったのです。  そして驚くべきことに、54節以下に「百人隊長や一緒にイエスを見張りをしていた人たちは、地震やいろいろな出来事を見て、非常に恐れ、『本当に、この人は神の子だった。』と言った。」とあります。百人隊長や、一緒にイエスの見張りをしていた人たちというのは、イエス・キリストを侮辱し、イエス・キリストに唾を吐きかけ、棒でたたいた人たちでした。その人たちが、驚くべきことに「本当に、この人は神の子だった。」と言ったとあります。イエス・キリストの十字架の死の後、最初の信仰告白をしたのがこの人たちであったわけです。イエス・キリストを侮辱し、辱めていた人たちが驚くべきことに、この人こそ神の子であったと、信仰の告白をするまでに変えられていったのです。この告白を共にする群れが、わたしたちの教会のことです。イエス・キリストはいつも度ごとに「あなたこそ神の子、救い主であられます」との信仰告白をするようにと、わたしたちを招いておられます。わたしたちがこの招きに応えていくときに、主イエスを十字架に付ける者であるわたしたちが、主が与えてくださる新しい命に生きる者に変えていただけるのです。その道を歩むことができるように、わたしたちはしっかりと祈り求めてまいりたいと思うのです。

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