2023.3.26 受難節第5主日礼拝
エゼキエル書 第37章12~14節
ローマの信徒への手紙 第8章8~11節
ヨハネによる福音書 第11章28~37節
                          

「イエスは涙を流された」

本日は、ヨハネによる福音書を中心にみ言葉に聴いてまいりましょう。

 28節でマルタは、兄弟のラザロを失って悲しみの中でうずくまっているマリアに、「先生がいらして、あなたをお呼びです」と耳打ちしました。

 マリアはマルタの言葉を聞いて立ち上がり、主イエスのもとに来て、その足もとにひれ伏して「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」と言いました。マルタも21節で全く同じことを言いました。彼女らは、主イエスが病を癒す力を持っておられる神の子、救い主であられることを信じているのです。しかしそれでも、いやだからこそ、主イエスが間に合うように来てくださらずにラザロが死んでしまったことへの嘆きも深いのです。

 33節に、「イエスは、彼女が泣き、一緒に来たユダヤ人たちも泣いているのを見て」とあります。この「見て」は大事な言葉です。嘆き悲しみ、不安と恐れの中にいるわたしたちのところに主イエスが来てくださり、わたしたちが苦しみ悲しみ泣いているのを「見て」くださるのです。わたしたちの嘆き悲しみ、不安と恐れに主イエスのまなざしが注がれるのです。そこから、主イエスによる救いのみ業が始まります。彼女らが泣いているのを見た主イエスは、「心に憤りを覚え、興奮して」とあります。主イエスの心に激しい「憤り」が起っているのです。それは何に対する憤りでしょうか。それは、主イエスがこの憤りによって戦っていく相手、すなわち、ラザロを捕え、マルタとマリアとを悲しみ、絶望の中に閉じ込めている死の力です。主イエスの憤りは、そのようにわたしたち人間を捕えている死の力にこそ向けられており、主イエスはこの憤りをもって死の力に戦いを挑んでいかれるのです。

 34節にある「どこに葬ったのか」という問いがその戦いの始まりを意味いたします。これは普通に読めば「ラザロの墓の場所はどこか」という問いですが、そこには深い意味、含蓄があります。葬るとは、その人が死んだという事実を認め、その人はもはや死の支配下にあり、誰も彼をそこから解放することはできないことを確認する、ということを意味しています。主イエスは憤りをもってそのことに疑問を投げかけておられるのです。あなたがたは、ラザロは死に支配された、もう彼を救うことができる者はいないと思っているが、本当にそうなのか?と問うておられるのです。

 この問いに対して人々は「主よ、来て、御覧ください」と答えました。彼らはそう答えるしかないのです。「だって、ラザロは現に死んで墓に葬られています。その墓が確かにここにあります。どうぞ見てください」。それがわたしたちの目に見えている現実、動かしようのない事実です。しかし、このことによって大事なことが起こりました。主イエスがラザロの葬られている墓に来て、それを御覧になったのです。主イエスがラザロの墓に「来て」、それを「見た」のです。このことから、つまり主イエスが、死に支配され、苦しみ悲しみに、不安や恐れに捕えられているわたしたちのところに来てくださり、わたしたちの苦しみ悲しみの現実を見てくださることから、新しい出来事が、主イエスによる救いのみ業が始まるのです。

 その新しい出来事、救いのみ業の始まりが35節の「イエスは涙を流された」です。ラザロが死に支配され、遺族たちが泣いている、その現実を見て激しく心を動かされ、主イエスは涙を流されたのです。主は、わたしたちと共に泣いてくださってもいるのです。それはわたしたちが、愛する者が死んで悲しみの只中にある人の前で、慰めの言葉もなく、ただ一緒に泣くしかないという同情の涙と同じものではありません。主イエスが涙を流されたことは、死の力、すなわち私たちを捕えて支配し、苦しみ悲しみを与え、希望を失わせようとしている力との戦いの始まりなのです。その戦いにおいて主イエスはさらに涙を流し、わたしたちのために苦しみを受け、十字架にかかって死んでくださったのです。そしてこの戦いは、父なる神が主イエスを復活させてくださったことによって終わりました。神の恵みが、死の力に勝利したのです。死の支配は神の恵みによって打ち破られ、死からの解放と新しい命が打ち立てられたのです。主イエスの復活において実現したこの救いの先取りとして、ラザロの復活がこの後起ったのです。

 主イエス・キリストがわたしたちのところに来てくださり、わたしたちと出会ってくださり、わたしたちが陥っている不安や恐れ、苦しみ悲しみの現実を見てくださり、心を動かされ、わたしたちと共に涙を流してくださっている、それほどまでにわたしたちのことを愛してくださっている、その主イエスの愛による涙から、新しいことが始まりました。神の独り子であられる主イエスが、憤りをもって、涙を流しつつ死の力と戦ってくださり、ご自分の命をわたしたちのために与えてくださった、その主イエスを父なる神が復活させてくださった、それによって、死の支配からの解放が実現し、その救いの約束がわたしたちに与えられているのです。しかし、わたしたちを脅かしている根本的な力である死の力の前ではわたしたち人間は全くの無力です。死を滅ぼしてその支配から人を解放することができる者はいません。しかし神は、独り子主イエス・キリストをこの世に遣わし、その十字架の死と復活とによって、つまり主イエスご自身が受けてくださった苦しみと悲しみ、そして死によって、主イエスが流してくださった涙によって、死の支配を打ち砕き、わたしたちに復活の命、もはや死に支配されることのない永遠の命を約束してくださったのです。この福音書の3章16節に「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」と語られていた通りです。「イエスは涙を流された」。そこにわたしたちは、独り子をすら与えてくださった神の愛を見ることができます。その愛による涙から、神の救いの出来事が新たに起っていく、そのことをわたしたちは信じて歩むことができるのです。

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