2023.3.5 受難節第2主日礼拝
創世記 第12章1~4a節
ローマの信徒への手紙 第4章1~5節、13~17節
マタイによる福音書 第17章1~13節
                          

「山上の変貌」

 本日は、マタイによる福音書を中心にみ言葉に聴いてまいりましょう。

   きょうのところでイエス・キリストは、山にお一人で登られたのではなくて、ペトロ、ヤコブとヨハネの三人だけを連れて、山にお登りになったとあります。2節に「イエスの姿が彼らの目の前で変わり、顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった。」とあります。弟子たちの目の前で主イエスの姿が変わり、とありますが、変わった、変わるというのは、一部がちょっと変化したというようなことではありません。原文のギリシャ語の意味を見ますと、英語ではトランスフォームというふうに訳されております。トランスフォームというのは、全くそのすがた・かたちが変わってしまうという意味です。例えば、蝶がサナギから美しい蝶に変わるように。それぐらい元の姿が全くわからないぐらいの変化という言葉が使われているのです。そして、そのように全く変わってしまったイエス・キリストのそのお姿を見て、弟子たちはとても驚いたわけです。しかも、イエス・キリストとご一緒にモーセとエリアが現れて、主イエスと語り合っていた。それが彼らの目の前で起こったということなのです。彼らは本当に、そのような光景を目の当たりにして、とても驚いたことは想像に難くありません。

 それでは、なぜこのようにして、突然の出来事でありましたけれども、ペトロ、ヤコブ、ヨハネの前に、彼らだけの前に、キリストがその栄光のお姿を現したのでしょうか。イエス・キリストが神様のご栄光を現される御方であるということは弟子たちやその当時のすべての人たちには隠されておりました。それは、主イエスが復活なさるときまで隠されていたことなのです。主イエスは、神様のご栄光を本質として持っておられるお方であられるのです。あの山上で、特別にこの三人の弟子たちだけにイエス・キリストが神様のご栄光を現される御方だということが、彼らだけにほんの一時だけ前もって垣間見ることができるようにしてくださったのです。それは弟子たちのためでありましたけれども、それはわたしたちのためでもあったのです。

 わたしたちは、この世でイエス・キリスト信じ、神様を信じて生きているのですが、イエス様のご栄光がわたしたちにも隠されているように思えて、戸惑ってしまうことがあります。しかし、イエス・キリストが、わたしたちにそのご栄光を現してくださる、そのときを用意してくださっているのです。それはどういうときでしょうか。それがまさに、わたしたちが毎週このようにして献げております礼拝の場においてなのです。わたしたちはいま受難節のときを過ごしております。イエス・キリストの復活をお祝いするイースターを迎えるわけですが、毎週の主日の礼拝は、別名「小イースター」とも言われています。小さなイースターということです。一週間わたしたちは、み言葉を携えて、一週間の歩みを歩みぬいてこの礼拝の場に集うわけです。その一週間の間にいろんなことがあります。悩み、苦しみ、悲しみ、楽しいことではない、いろいろな重荷を背負ってしまう。神様の恵みがはっきりと目に見えなくなってしまう。場合によっては、信仰が揺らいでしまうようなこともある。しかし、この礼拝に集い、み言葉に聞き、神様を賛美するこの礼拝において、わたしたちがイエス・キリストのご栄光を感じることができるのです。わたしたちがイエス・キリストのご栄光を見ることができるように、この礼拝が用意されていると言っても過言ではありません。弟子たちの前に、イエス・キリストが光り輝くお姿で現れた。そして、恐れる弟子たちに対して「起きなさい。恐れることはない。」と彼らに近づいてくださって、彼らに手を触れておっしゃる。そのことがこの主日の礼拝ごとに、わたしたちに差し出されているということなのです。16章で、イエス・キリストがペトロを始め弟子たちに、わたしは律法学者や祭司長たちに十字架につけられ殺され、しかし三日後に復活するとおっしゃいました。イエス・キリストが歩まれる道は、楽な道ではない。苦しみ、悩み十字架を背負って歩む道である。その歩む道を自分の十字架を背負ってついていきなさいと、イエス・キリストはわたしたちにお命じになる。それは苦しみ、悩みに満ちた道だけではなくて、それで終わる道ではなくて、16章27節にありますが、「人の子は、父の栄光に輝いて天使たちと共に来るが、そのとき、それぞれの行いに応じて報いるのである。」とあります。「人の子が父の栄光に輝いて天使たちと共に来るとき」というのは、終わりの日ということです。この世が終わる、終わりの日にイエス・キリストが再びこの世に来られる。そのときに主イエスが神のご栄光を現して、誰の目にも目に見える形でこの世に来られる日、それが終わりの日です。その日にわたしたちは、永遠の命、復活の命にあずかる、その希望がわたしたちに与えられているということを、わたしたちにイエス・キリストは約束していてくださっているのです。自分の十字架を負って、わたしに従いなさい、とイエス・キリストはおっしゃる。そして、終わりの日には永遠の命、復活の命に生きる希望が与えられている。わたしたちが主日の礼拝ごとに、主イエスが近づいてくださり、わたしたちに手を触れて「起きなさい。恐れることはない。」と言ってくださる。自分の十字架を背負って、主の弟子として歩むわたしたちにそのようにしてくださるお方が、わたしたちの傍らにいてくださるのです。そのことを本日のみ言葉を聴くことによって、わたしたちは確信することができるのではないでしょうか。わたしたちは受難節のこのとき、苦しみ悩み、様々なことがありますけれども、わたしたちに近づいてくださり、わたしたちに手を触れて、「起きなさい。恐れることはない。」と言ってくださる、その方がわたしたちの傍らにいてくださっているということを喜び、そのことを確信して希望を持って歩んでいくことができるように祈ってまいりましょう。

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