2023.2.26 受難節第1主日礼拝
創世記 第2章15〜17節、第3章1〜7節
ローマの信徒への手紙 第5章12〜19節
マタイによる福音書 第4章1〜11節
                          

「荒れ野の誘惑」

 きょうの聖書の箇所は、イエス・キリストが宣教の旅に出られる直前に、悪魔の誘惑を受けられるというところです。主イエスは、最終的にその悪魔の誘惑をことごとく退けられました。救い主として、メシアとしてこれから生きようとなさるイエス・キリストの前に悪魔が現れ、誘惑を受ける。試みを受ける。これは非常に厳しい誘惑、試みでした。悪魔は、巧妙に主イエスに誘惑を差し出し、試みるのです。

 なぜここでイエス・キリストが悪魔の再三の誘惑を拒絶されたのでしょうか。もちろんそれは、聖書の教え、神様の教えに従ったからこそであったのですが、それはひとえにわたしたちの救いのためであったと言っても過言ではありません。神の救いとは何かということをわたしたちに指し示すために、イエス・キリストは必死で悪魔の誘惑を退けられたのです。

 3番目の誘惑にありますけれども、悪魔は世の全ての国々とその繁栄ぶりを見せて、「もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えようと言った。」とあります。この世の全ての国々とその繁栄ぶりを見せて、とありますが、この繁栄ぶりというのは、直訳しますと栄光という意味でもあります。この後きらびやかなこの世の栄光を見せられる。それをわたしを拝むなら、これをみんな与えようと悪魔は誘惑する。わたしたちの唯一の神様であられる御方を拝むのではなく、悪魔、サタンを拝むようにそそのかされる。これは何も、このイエス・キリストに対する悪魔の誘惑、そのことの、このケースだけの話ではありません。これは決して他人事ではない。わたしたちに対する試み、誘惑でもあるのです。わたしたちは目に見えない神様の救いよりも、お金や財産、目に見える友人や知人の助けを求めます。なんだかんだ言っても、最後にはお金や財産、知り合いの人たちの助けが一番なのだと思ってしまう。目に見えない神様の救いよりも、そういった目に見える確かな、確かと思えるものにそれを拝んでしまう。それは偶像崇拝ということでありますけれども、そのような悪魔の誘惑、誘い、試みというものは、わたしたちはいつも誘惑にさらされているのであります。しかし、わたしたちはそのようにして悪魔の攻撃に対する被害者という立場で考えてしまうわけですが、しかし、果たして今日のところをしっかりと読みますならば、果たしてわたしたちが被害者だけということで済むのか、ということもしっかりと心に留めなければなりません。わたしたちが悪魔によって、試みられる者、それだけではなくて、わたしたちこそが神様を試みている。わたしたちこそが悪魔そのものではないかと考えられるのです。それはなぜでしょうか。わたしたちはいつも神様を試みているのです。わたしたちは人生で生きていく中で、様々な苦しい困難な状況の中に置かれます。そのようなときに、「どうか神様わたしたちのこの困難な状況から救ってください」、と一生懸命に祈ります。わたしたちは信仰を持っているのだから、昔から神様を信じて、信じ続けてきたのだから、何らかの形で目に見える形で救われるのは当然ではないかと考えてしまう。しかし、わたしたちが期待する通りにいかないときに、神様は本当にいらっしゃるのだろうか、とさえ思ってしまう。全能の父なる神様であるならば、わたしたちを救ってくださるのが当然だと考えてしまう。わたしたちの救い主であられるなら、そのしるしを見せてくださいとわたしたちは思ってしまう。この2番目の試みにありますように、あなたが神の子ならば、神殿から飛び降りたら、天使たちに救ってもらえるだろう。あなたは助けてもらえるだろうと、悪魔は主イエスを、神様を試みたのであります。同じようにして、わたしたちも神様を試みてしまう。わたしたちも悪魔になってしまうのです。悪魔になって、神様を試みてしまう。わたしたちは決して、この場面におけるこの場面の芝居を観るときの見物人のようになることはできないのです。わたしたちもまたこの場面における当事者なのです。

 神様の救いとは何か、ということがここでの中心的なテーマであると言ってもいいと思います。日本人の多くは、初詣などで、お賽銭を投げて、商売繁盛、家内安全、入学試験の合格を祈る、そういうご利益がいただけるように手を合わせます。しかし、わたしたちが信じるこの信仰は、そういったご利益信仰ではありません。もちろん、わたしたちの願いを神様はいつもしっかりと聴いていてくださっています。しかし、わたしたちの本当の救いとは、そういうところにあるのではありません。もちろんわたしたちの食べること、飲むこと、着ることについては、当然神様はわたしたちに配慮してくださるお方です。しかし、わたしたちの救いというのはそういうところにあるのではなくて、どのようなときにもイエス・キリストがわたしたちの傍らにいてくださることを信じること、そして、わたしたちが、その主イエスの御跡に従っていくということ、そのことこそが救いなのだと聖書では語っているのです。

 きょう皆さんと聴いてまいりましたこの聖書の箇所ですが、悪魔の三度の試み対して、主イエスはみ言葉によって悪魔に対抗なされ、悪魔の誘惑を退けられたのです。この神様のみ言葉を中心にイエス・キリストは生きられました。み言葉に従って生きられ、そして最後には神様の御心に服従なさって、十字架にかかられて死なれ、そして復活なさったのです。主イエスは、天の父なる神様に最後まで従順に従われました。わたしたちのなすべきことは、主の御跡に従うということ、み言葉に従って生きるということなのです。そのことこそが、わたしたちの救いなのです。ご利益信仰ということではなくて、主にお従いするということが、神の救いなのだと聖書で示されています。そのことこそがわたしたちの救いなのです。そのことをしっかりとわたしたちは心に留めて、神様の救いにあずかって生きられるように祈ってまいりましょう。

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