2023.2.19 降誕後第8主日礼拝
レビ記 第19章1〜2節、17〜18節
コリントの信徒への手紙一 第3章16〜23節
マタイによる福音書 第5章38〜48節
                          

「汝の敵を愛せよ」

 本日は、マタイよる福音書を中心に御言葉に聞いてまいりましょう。  本日皆さんと聴いてまいります聖書の箇所のなかに、「だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。」「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」という御言葉がありますが、これらはキリスト者以外の人たちにもよく知られているイエス・キリストの御言葉です。

 わたしたちは、ふつうもし右の頬を打たれたとすれば、相手に対して同じようなことをするだけではなくて、2倍にも3倍にも仕返ししてやろう、と思ってしまいます。38節にある「目には目を、歯には歯を」という言葉は今でもよく知られている言葉です。しかし、これはよく誤解されているのでありますが、同じことをされたら、同じことをして良いというふうにわたしたちは取ってしまっているのではないでしょうか。今からはるか以前、紀元前18世紀に今のイランのあたりにありましたバビロンという帝国のハンムラビ王によって制定されたハンムラビ法典と言われた法律にも同じ規定が盛り込まれていました。これは、同じことをされたら、同じことをしていいという意味ではなくて、された以上の報復をするな、という制限のことなのです。これは「同害報復」というふうにも言われていますが、そういう昔からの掟でありました。イエス様はその法律の規定を持ち出されて、あなたがたは、「目には目を、歯には歯を」ということをよく知っているだろうけれども、しかしあなた方に言っておく、右の頬を打たれても、相手に報復をするな、さらに左の頬をも向けなさいと、おっしゃる。イエス様はその「目には目を、歯には歯を」ということだけにとどまらず、それ以上のことをさせなさい、とまでおっしゃるわけです。

 ここに記されておりますところをそのまま読みますと、とてもわたしたちにはできない、できそうにない戒めである、と考えてしまいます。しかし、なぜイエス・キリストはこのようにして、わたしたちに厳しすぎると思われるような戒めをお与えになったのでしょうか。

 イエス・キリストがわたしたちにそのようにおっしゃるのは、45節にありますように天の父なる神様が「・・・悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる・・・」お方であられるから、そのような神様の子どもとなるために、あなたがたは敵を愛しなさいとまでおっしゃるのです。

 わたしたちはともすれば、神様の味方だと思って、信仰生活を送っています。 自分たちは正しいと、あの人たちは悪人であると、分け隔てをして考えてきています。しかしわたしたちは、そうは言っても果たして本当に神様の味方と言えるのでしょうか。わたしたちは神様を信じる前、神様を知る前には、神の教えを無視し、神様と敵対してさえいた者たちではなかったでしょうか。いまも神様に逆らい、神様に敵対していないと絶対に断言できるかというと甚だ心許ないのではないでしょうか。しかし、そのようなわたしたちをも神様は愛していてくださる。わたしたちが正しく生きられない、そのような者を、そのままで愛していてくださるのです。

 皆さんもご存知だと思いますが、アメリカにマーチン・ルーサー・キング牧師という方がおられました。彼は1929年に生まれ、1968年に銃で暗殺された牧師です。黒人の解放のために立ち上がった人です。アメリカの黒人の解放のために、公民権運動と呼ばれた運動の先頭に立った人です。その抵抗運動の抵抗の運動の仕方としては、インドのガンジーにならってあくまで非暴力で抵抗運動をしていった人です。このキング牧師は、その運動の先頭に立って戦いまして、しかし不幸なことに1968年、今から55年前に銃で暗殺されてしまいました。「 I have a dream.(私には夢がある)」という演説は有名です。そのキング牧師は、生前、説教集を残しています。「汝の敵を愛せよ」という題がついた説教の中で次のような文章がありました。汝の敵を愛しなさい。敵とは白人のことがメインであったと思いますが、彼は本日わたしたちが聴いているこの聖書の箇所を引用しながら、彼は汝の敵を愛しなさい、と会衆に訴える。まさに彼はその御言葉に生きた人でありました。それでも、彼は「汝の敵を愛する」ということは確かに難しいことだけれども、わたしたちのために、かつて敵であったわたしたちのため、そして神の敵である人たちでさえも、その人たちのために、イエス・キリストが十字架にかかってくださった。わたしたちがその御方の足元にひれ伏すとき「汝の敵を愛しなさい」という戒めを守ることができるのだ、とキング牧師は説教の中で語っているのです。右の頬を打つなら、左の頬を向けなさい。汝の敵を愛しなさい、自分を迫害する者のために祈りなさい、というこの教えをただの道徳、倫理として捉えるならば、わたしたちはとても守れない、逃げるしかない者たちでありますけれども、しかし、わたしたちのために十字架にかかってくださった、この御方の足元にひれ伏すときにこそ、そのときにだけ、わたしたちはこの戒めを守る力が与えられる、守ることができる者とされるのです。自分の手の中を見ると絶望するしかないわたしたちですけれども、そのようにしてわたしたちに力を与え、導いてくださる方がおられるということ、そのお方がわたしたちの傍らにおられるということを、しっかりと心に刻み、神様の教え、イエス・キリストの教えを守っていく。そのことこそが救いなのであるということを深く心に留めて生きることができるように、神の救いにあずかって生きることができるように祈ってまいりましょう。    閉じる