2023.2.12 降誕後第7主日礼拝
申命記 第30章15〜20節
コリントの信徒への手紙一 第2章6〜10節
マタイによる福音書 21〜26節
                          

「和解を求めて」

   本日は、マタイによる福音書を中心に御言葉に聴いてまいりましょう。

   本日の聖書箇所の21節から22節に、「あなたがたも聞いているとおり、昔の人は『殺すな。人を殺した者は裁きを受ける』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける。兄弟に『ばか』と言う者は、最高法院に引き渡され、『愚か者』と言う者は、火の地獄に投げ込まれる。」とあります。

わたしたちは「殺すな」という戒めは当然に守れるとしても、この世で誰一人として腹を立てるなと言われて、腹を立てないようにしますと言って、それを実行できる人は誰一人としていない、と思われるのです。

 それではなぜイエス・キリストは、このようにしてこんなに厳しい戒めをわたしたちに与えられるのでしょうか。わたしたちにとても実行できそうにないような戒めを、わたしたちに与えられるのか。

 この22節に「『愚か者』と言う者は、火の地獄に投げ込まれる。」とあります。ここで言われておいます「愚か者」というのは、神様との関係を遮断された者、神を信じないで、神様の教えに背いている者。そしてその者は呪われよというような意味です。そのようにして人を呪う、愚か者と言う。現実に殺人を起こさなくても人を呪う。呪われよ、と酷い言葉を投げつける。それは、実際にその人のことを殺すわけではないのですけれども、呪われよと言われた人を実質的にわたしたちは葬り去っていることと同じではないか、とある人は申しました。そういう意味での殺人をわたしたちは犯しているのではないか。そう問われても、わたしたちは反論することができないのではないでしょうか。

 イエス・キリストは神様を愛し、隣人を愛しなさいとおっしゃいました。その戒めが最も大切な戒めだと弟子たちにおっしゃいました(マルコ12章33節)。神様を愛する。神様との関係を何よりも大切なこととする。そして同時に、隣人との関係。隣人を愛するということを最も大切なこととしてわたしたちに示してくださったのです。

 わたしたちにとって神様との間のことが一番大切ですけれども、それとともに、わたしたちが隣人同士愛し合って生きる、どのように生きているのかということをイエス・キリストはとても大切に考えておられるのです。ところが、わたしたちがもう顔も見たくない、この人はもう赦すことはできないという大きな憎しみを持っている、もう自分の頭の中の住所録には、その人をもう消し去ってしまうというようなこともある。しかし、あえて主イエスはおっしゃる。25節に「途中で早く和解しなさい。」とあります。23節に「祭壇に供物を献げようとし」とあります。これはわたしたちが今このようにして礼拝を献げている場面です。その途中で仲違いをしている人を思い出したならば、祭壇の供物をそのままにしておいて、仲直りをしなさいと命じておられる。しかし、いやそんなことできるわけないじゃないか、とわたしたちは思ってしまう。もう一生赦さない、もう記憶からも取り除けてしまっているような人がいるとすると、その人と和解しなさい、ということを主イエスはおっしゃる。ただの道徳、倫理の話でしたならば、わたしたちは努力目標として聴いてしまうわけです。しかし、これはわたしたちが救い主として信じるお方の招きなのです。ご命令と言ってもいいものです。イエス・キリストという御方は、弟子たちや、そして特にイエス・キリストこそがこの世の救い主であると信じ、従っていった人たち、多くの群衆の、病を癒やし、悪霊を追い出してくださったその御方こそ、自分たちを解放してくださる救い主だと、信じた人たちに裏切られまして、十字架につけられた御方です。それは人間の罪が極まって、イエス・キリストを十字架にかけ、殺してしまったのです。わたしたちもまた罪深い者たちです。そのようにして、イエス・キリストは追い詰められて十字架にかけて殺されてしまった。その御方こそ、わたしたちに対して怒りを爆発させるに十分な資格を持った御方と言えると思います。「愚か者」とわたしたちが主イエスに非難されてもおかしくない。「呪われよ」と言われてもおかしくない。そのような怒り、憎しみを爆発させる、わたしたちに対して爆発させても良い御方であるにもかかわらず、しかし、それをおっしゃらなかった御方です。十字架のいまわの際で、イエス・キリストは、この人たちをどうか赦してください。この人たちは何をしているのかわからないのです、と叫んで神様にとりなしの祈りを献げられました。主イエスが自分を十字架につけた者たちに対して、恨み事を述べるどころか、その赦しを請う、神様に請う。そのようにしてくださったお方なのです。そのお方が「和解しなさい」と勧めてくださる。いや、とてもわたしはそのように、あの人赦すわけにはいかないということがありますけれども、その主の御命令に従う。それはそういう御方に対する服従と言うことです。「わたしに従ってきなさい」と言われた御方への信頼。「わたしにはできない」と思っていることでも、一歩を踏み出してみる。湖の上を歩いておいでになった主イエスが、弟子のペトロにあなたも来なさい、とおっしゃったとき、ペトロは恐る恐る水の上に自分の足を置くことができました。一歩を踏み出すことができたのです(マタイ14章29節)。それはペトロが主イエスに対する信頼があったからこそなのですが、わたしたちにはとてもできないと思われるようなこと、水の上を歩くということもそうですけれども、人と和解する、人を赦す、そういうことができるように、わたしたちに「一歩踏み出しなさい」と言ってくださる方がおられます。ここに主の恵みがあるのです。わたしたちはその主の招きに従って一歩を踏み出すのです。そのようなわたしたちの後ろを押してくださり、守ってくださる方がおられます。そのことに信頼して、わたしたちもとても和解などできないと思っていたことでも、できるようにしてくださるはずです。そのことを信じて、一歩を踏み出していくことができるように祈り求めてまいりましょう。

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