2023.2.5 降誕後第6主日礼拝
イザヤ書 第58章7〜10節
コリントの信徒への手紙一 第2章1〜5節
マタイによる福音書 第2章1〜5節
                          

「地の塩、世の光」

   本日は、マタイによる福音書を中心に御言葉に聴いてまいりましょう。

   本日の最初のところに「あなたがたは地の塩である。」そして14節ですが、「あなたがたは世の光である。」とあります。あなたがたは地の塩、世の光としてこの世を生きなさいということなのでしょうか。地の塩、世の光として生きなさいということは、自分で努力して立派な行いをしてこの世を歩みなさい、ということなのでしょうか。そういう単純な話ではないということが、ここをじっくりと読むとわかってまいります。わたしたちは罪深く弱い者たちでありますので、立派な行いをするということが、なかなかできないのです。あなたがたが自分の力で地の塩となれるように努力しなさい、とここでイエス・キリストがおっしゃっているのではありません。その証拠に、最初のところでは、「あなたがたは地の塩である。」とイエス・キリストが宣言しておられるからです。自分で努力するまでもなく、そもそもあなた方は「地の塩」なのだと宣言しておられるのです。では「地の塩」というのはどういうことなのでしょうか。わたしたちが生きていく上でなくてはならないもの。それは塩です。塩は調味料だけではなくて、この国では清めの意味で塩を使います。そういう役割があるのです。13節に「塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう。」とあります。塩というのは皆さんご承知の通り、おもに料理の味付けをするものです。塩がない料理というのは、料理としては美味しくないものでしょう。これは「塩気がなくならないようにしなさい」「塩としての役目を果たせるようにしなさい」というご命令なのです。しかし、わたしたちは自分の力でそれをすることはなかなかできないのです。  次に、「世の光」「あなたがたは世の光である。」とイエス・キリストはおっしゃる。15節に、「また、ともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである。」とあります。

 光は、光として役に立つには、燭台の上に置く。その光を遮ってはならないと、イエス・キリストはおっしゃるのです。すなわち「世の光、地の塩」として役に立つように生きなさい、ということなのですが、わたしたちがそのことを聴くときに、たじろいでしまう。戸惑ってしまうということがあるのではないでしょうか。わたしたちはそのようにして、このような地の塩、役に立てるものになれるのだろうか。「地の塩」というのは先ほど申しあげましたけれども、清めるという役割もあります。わたしたちがこの世の不正を正し、この世の汚れを清めるなどということができるのだろうか。役に立つ存在としてこの世で生き、人々からの尊敬を受けるような生き方ができるのか。暗いこの世を照らし、良いことをして人々に喜ばれ、尊敬されるように生きられるのだろうか。わたしたちは自分のことを見たときに、果たしてそのようにできるのかどうか。大変心もとない思いをさせられるのです。

 それではなぜ、イエス・キリストはこのようにおっしゃったのでしょうか。13節にありますけれども、「あなたがたは地の塩である。」とイエス・キリストはおっしゃっている。あなたがたは地の塩になれるように努力しなさい、とはおっしゃっていない。この世の光、14節にありますが、「あなたがたは世の光である。」と宣言しておられます。あなたがたは世の光になれるように努力しなさい、とはイエス・キリストはおっしゃっていないのです。もうすでにあなたがたは地の塩であり、世の光なのだとここで宣言しておられるのです。自分の努力でなんとかしろとはおっしゃっていません。もちろんわたしたちはこの世を生きる上で役に立てる存在、この世を照らし出す存在になれたらいいのにな、と思うこともあるわけです。世のため人のためにお役に立てるように生きる。それが人として生きる道だ、というのは古今東西どこにおいても道徳、倫理として掲げられていることです。わたしたちがそのように生きることができれば、人々からの尊敬を受け、誉れを受けることができます。しかし、わたしたちがそのようにして果たしていつも立派な行いをすることができるのだろうか、と戸惑ってしまう。立派な行いをしたと思っても、周りから偽善者だと指されてしまう。わたしたちはそれをどのように考えればいいのでしょうか。

 ある人が申しました。この「地の塩、世の光」というのは、イエス・キリストのことに他ならないと。まさに、本当の意味でこの世で地の塩として、世の光として生きられたのはイエス・キリストをおいて他にはありません。わたしたちは、それではどういうことになるのか。わたしたちは自分自身が自分自身の力で輝く、塩として役に立つということではなくて、光で言えば本当の光の源はイエス・キリストである。イエス・キリストの光を、わたしたちは受けていわば鏡のようにして、その光を受けて反射して光を輝かせる。真の地の塩であられるイエス・キリストの御言葉に聴いて、そのみ跡にお従いするときに、主は聖霊の力を注いでくださって、わたしたちが地の塩として、この世で役に立つように生きていくことができるようにしてくださるのです。わたしたちがそのように生きられるように聖霊の力を注いでくださるのです。道徳的にわたしたちが立派な行いをして、「地の塩、世の光」となるのではありません。わたしたちが立派な行いをするということは、わたしたちが「地の塩、世の光」として神様の愛と憐れみに依り頼んで生きるときに、この世の人々の前ではそれが立派な行いと見えることがある、そういうことなのだと思うのです。

 わたしたちは自分の手の中に目を留めるときに、何も持っていないとがっかりするしかない者たちでありますが、真の「地の塩、世の光」であられるイエス・キリストを仰いで、わたしたちが「地の塩、世の光」として歩むことができるように聖霊の力を神様は注いでいてくださることを信じて、この世で神の民として生きていくことができる。そのことを確信して歩んでまいりたいと思うのです。

     閉じる