2023.1.29 降誕後第5主日礼拝
ゼファニア書 第2章3節、3章12〜13節
コリントの信徒への手紙一 第1章26〜31節
マタイによる福音書 第5章1〜12節
                          

「幸いな者」

 本日は、マタイによる福音書を中心に御言に聴いてまいりましょう。

   本日は、与えられております聖書箇所の最初のところを中心に、聖書に聴いてまいりたいと思います。きょうのところの3節から4節に「心の貧しい人々は、幸いである。天の国はその人たちのものである。」「悲しむ人々は、幸いである。その人たちは慰められる。」とあります。心が貧しい人というのはどういうことを言っているのでしょうか。

 この貧しいという言葉ですが、聖書では、元々この貧しいという言葉は、経済的に貧しいというような意味ももちろんありますが、おもに何も持っていない、自分自身を頼りにすることができない。能力やお金、財産だけではなく、その他様々な勇気や強さもあると思いますが、そういったものを一切持たない。そういうことを表しています。自分で自分を救うことができない。何も持っていない。何も持っていないがゆえに、「神様、助けてください」と言わざるを得ない。神様に本当に頼るしかない。神様に頼らなければ、もう滅びるしかないというような状態です。そういう状態の人たちが幸いであると主イエスはおっしゃる。天の国はその人たちのものなのだと。天の国といいますのは、わたしたちがいずれ死んで行く、お花畑のようなところ、そういうところではありません。そういう意味ではなくて、これは別名「神の国」ということです。「神の国」というのは韓国や中国アメリカというような、どこかそういう領土的な範囲に関わるようなイメージではなくて、直訳いたしますと「神様のご支配」という意味があります。「心の貧しい人々は、幸いである。天の国はその人たちのものである。」自分には何も持たず、自分で自分を助けることができない、何も持たない。その人たちは幸いである。それは神様への信頼、信頼に生きるがゆえに、神の国、神様のご支配に生きることができる、ということなのです。

 「貧しい」という意味は、何ものも持っていない。自分で自分を救うことができない、頼るものがないということです。財産など持っておりますと、わたしたちはその財産によって平安を得ようとする。そのためにわたしたちはお金が欲しくなる。お金さえあれば、十分にあれば、幸せに生きられるのにと思ってしまう。わたしたちは、神様を拝んで生きておりますが、神様を拝む代わりに、お金や財産を拝んで生きるようになってしまう。果たしてそれが幸せなのか。そういうことが問われているのです。何も持たないがゆえに、何かを持とうする。何かを欲する。お金、財産、能力を欲しがるというのではなくて、何も持たないがゆえに、神様に信頼し、神様の御力、神様の救いを信じて生きる。そのように神様を信じ、神様に信頼して生きるところにこそ、(イエス・キリストの御跡について行こうとするわたしたちには)幸いが与えられているのだということが、ここで主イエスが述べておられることなのです。

 「悲しむ人々は、幸いである。その人たちは慰められる。」と4節にあります。悲しむ人々がなぜ幸いなのか。悲しいことが幸いだというのはどういうことなのか。普通、悲しくないことこそが幸いではないか、とわたしたちは考えてしまいます。一般的に言えば、もちろんそうなのです。しかし、なぜイエス・キリストがここで「悲しむ人々は、幸いである」とおっしゃったのか。わたしたちは生きていく中で、楽しいことばかりではありません。むしろ辛く悲しいことの方が多い日々をわたしたちは送っております。そのような中で、なぜ悲しむ人々が幸いであると、イエス・キリストがおっしゃるのか。その人たちは慰められると主はおっしゃいます。なぜその人たちが慰められるのか。先ほど申しあげましたが、心の貧しい人々。その人たちは自分で自分を助けることができない人たちであり、その人たちが神様の救いを信じて生きるときに、神のご支配の中で生きることができる。そのことが幸いなことなのだと主はおっしゃいます。「わたしのところに来なさい。必ずあなたを慰めてあげる。だから悲しむあなたがたは幸いなのだ」と主はおっしゃるのです。神様の国に生きる。神様を信じて神の救いを信じて、神様だけに依り頼むときに、神様は必ずあなたを慰めてくださるであろう。そのことを主イエス・キリストは責任を持ってわたしたちに語ってくださるのです。

 それでは、その根拠はどこにあるのでしょうか。わたしたちが神のご支配の中に生きている。そして、その悲しむわたしたちのために、慰めを与えてくださる。そのことの根拠はどこにあるのだろうか。イエス・キリストの十字架と復活こそが、わたしたちに対するその根拠です。それ以上の根拠があり得るでしょうか。そのことが確かな根拠となって、神の国が実現しているということ。そしていま悲しんでいるわたしたちがいつか必ず慰められるという、その約束が与えられているのです。

   イエス・キリストの十字架とそしてそのイエス・キリストを復活させてくださった、その神様の御業。そのことをわたしたちが思うときに、この神様のイエス・キリストが約束してくださったこの慰め、幸い、そのことをわたしたちは確信することができるのではないでしょうか。そのことが、神様を信じて生きるということなのです。

 わたしたちは生きていく中で多くの悲しみや苦しみを経験しますけれども、しかしわたしたちはそのような中で、神の国に生きている。神の御支配の中で生きている。神様の救いを信じて、自分の力を信じるのではなくて、神様の救いを信じて、神様にこそ依り頼んで生きる。そのことにおいて、神の国は実現しているのです。そして必ず、わたしたちに慰めが与えられる。わたしたちがそのことを確信できるように、神様が造り変えてくださると言ってもいいと思います。そういった貧しさや悲しさというものを、幸いなものへと造り変えてくださる。それが神様の救いということです。主を信じて、神の国に生きる。そのことこそがわたしたちにとっての救いなのだということを、きょうの聖書の箇所でイエス・キリストが語っておられるのです。そのことを確信していくことができるように、わたしたちは日々祈り求めてまいりたいと思うのです。

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