2023.1.22 降誕後第4主日礼拝
イザヤ書 第8章23b〜9章6節
コリントの信徒への手紙一 第1章10〜18節
マタイによる福音書 第4章12〜17節
                          

「闇を照らす大いなる光」

     本日は、マタイによる福音書を中心に御言葉に聴いてまいりましょう。

きょう聴いてまいります聖書箇所の最初の12節に 「イエスは、ヨハネが捕らえられたと聞き、ガリラヤに退かれた。」とありますが、洗礼者ヨハネが捕らえられた事情、逮捕された事情は、14章に語られています。当時ガリラヤ地方の領主であったヘロデ・アンテパスがヨハネを捕らえたのです。それはヘロデが兄弟の妻を奪って結婚したことをヨハネが「この結婚は律法で許されていない」と批判したからです。そしてこの14章に語られているいきさつの中で、ヨハネは獄中で首を切られて殺されてしまいます。このヨハネの逮捕のことを聞いて、主イエスはガリラヤに退かれたのです。

 「退く」という言葉は何を意味しているのでしょうか。実はこの「退く」という言葉が、14章にも出てきます。13節です。「イエスはこれを聞くと、舟に乗ってそこを去り、ひとり人里離れた所に退かれた」。「これを聞くと」の「これ」とは、ヨハネが首を切られたということです。ヨハネの死を聞いた主イエスは、「退かれた」のです。このことは主が「ひとりになる」ためだったと思われます。23節に「群衆を解散させてから、祈るためにひとり山にお登りになった」とあります。主イエスが「退いた」のは、身の安全のために隠れたのではなくて、一人になって祈るためです。神様と向かい合うためです。そのために主イエスは「退かれた」のだと思われます。本日のところで、ヨハネの逮捕を聞いて退かれたのもそれと同じことなのでしょう。

 そのように一人退いて神様と向かい合い、主イエスは何を思われたのでしょうか。何を神様に祈り、神様からどのような示しを受けたのでしょうか。主イエスはヨハネのこの苦しみと死とに、ご自分の将来を重ね合わせておられたのです。そしてそのことを、父なる神様に向かい合って祈りの中で見つめたのです。主イエスはヨハネの姿にご自分の将来を見つめつつ、父なる神様と向かい合って祈られたのです。

 このような主イエスの祈り、父なる神様との向かい合いの中から、「悔い改めよ。天の国は近づいた」という伝道第一声が生まれました。主イエスがこのようにして、ガリラヤで伝道を開始された。マタイはそこに、イザヤ書の預言の実現を見ています。本日共に読まれました、イザヤ書8章の終りから9章の初めにかけての言葉がここに引用されています。特にマタイが引用の箇所で語りたかったのは16節の「暗闇に住む民は大きな光を見、死の陰の地に住む者に光が射し込んだ」という言葉です。「暗闇に住む民、死の陰の地に住む者」とは誰でしょうか。マタイが語ろうとしているのは、「暗闇に住む民、死の陰の地に住む者」とは私たちのことだということです。生れつきの私たちは、自らの罪のゆえの暗闇の中にいるのです。自分の罪が、そして同じように人の中にもある罪が、私たちを暗闇の中に閉じ込めている。その暗闇の中で私たちはお互いに、しばしばぶつかり合い、お互いに相手を傷つけ、傷つけられつつ生きているのではないでしょうか。また私たちは、「死の陰の地に住む者」です。死が、私たちの人生にいつも陰を落しています。人はいつか必ず死ぬのですから、私たちの人生は常にこの死の陰の下にあります。普段はそれをなるべく見ないように、そこから目を逸らして生きています。しかし、年老いていく中で、あるいは病気によって、その陰は色濃くなり、それに怯えて歩むことになります。若くて元気な人でも、ある日突然、自分の、あるいは家族の、友人の生活がその陰に覆われてしまうことは多々あることです。

 私たちの生活は、罪による闇と、死の陰の下にある、それは全ての人に共通して言えることでしょう。その暗闇と死の陰の中にいる私たちに、大きな光が射し込んだ、それが、主イエスがお語りになった「天の国は近づいた」という宣言なのです。天の国は、主イエス・キリストが苦しみと死への道を歩んで下さったことによって決定的に近づきました。それは主イエスが、私たちの罪を背負って十字架の苦しみと死とを引き受け、そのことによって、父なる神様が私たちの罪を赦して下さったということです。この主イエスの苦しみと死とによって、私たちの罪の暗闇に光が差し込んだのです。

 私たちはもはや、お互いの罪による暗闇の中にいるのではなく、神様による罪の赦しの光の中にいるのです。また父なる神様は、十字架にかけられて死んだ主イエスを、死から復活させてくださいました。主イエスの復活には、私たちを最終的に支配しているように見える死の力、闇の力に対する神様の恵みの勝利があるのです。この主イエスの復活の恵みによって、死の陰の下にある私たちに希望の光が与えられました。もはや、私たちを最終的に支配しているのは、死の陰ではなく、神の恵みの光なのです。

 主イエスがお語りになった、「天の国は近づいた」という宣言は、罪の暗闇と、死の陰の下にいる私たちを、このような光へと招くものだったのです。

 暗闇の中に住む者に、死の陰の地に住む者に大いなる光が輝いた、その光に私たちがあずかり、私たちの生活が、人生が、この光によって明るく照らされるためになすべきことは何でしょうか。それが「悔い改め」です。「天の国は近づいた」という主イエスの宣言を受け、そこに与えられている光への招きに応えていくために、私たちは悔い改めることを求められているのです。それでは、それは何をすることでしょうか。それは、主イエス・キリストによって、そのご生涯と、十字架の死と復活によって、天の国、恵みのご支配を打ち立て、私たちの罪を赦し、死に打ち勝つ新しい命を与えて下さる父なる神様へと心を向けることです。悔い改めとは、何かをすることであるよりも、まず、心の向きを変えることです。自分のこと、自分の罪、自分の陥っている暗闇、自分の悲しみや苦しさ、自分の抱いている死への恐れ、そういうもので心がいっぱいになってしまっている私たちが、神様の方に向き直り、神様と向かい合っていくこと、それが悔い改めることなのです。悔い改めて本当に神様に向かい合っていくところにこそ、光が与えられるのです。

         閉じる