2023.1.8 降誕後第2主日礼拝
イザヤ書 第42章1〜9節
使徒言行録 第10章34〜38節
マタイによる福音書 第3章13〜17節
                          

「主イエスの洗礼」

 きょうの聖書の箇所で、ヨハネのところに、イエス・キリストがヨハネから洗礼を受けるためにやって来られたとあります。そのお姿を見てヨハネは大変驚いたことでしょう。「ヨハネはそれを思いとどまらせようとして言った。」とあります14節ですが、「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたは、わたしのところへ来られたのですか。」とヨハネはうろたえながら、言います。立場が逆ではないかと。

 罪のないお方。この世で罪のないお方であられるイエス・キリストが、どうして洗礼を受けようとおっしゃるのか。15節に、「しかし、イエスはお答えになった。「今は、止めないで欲しい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです。」」とあります。ここで言われております正しいということですが人として正しいこと。すべきであること。神様に命じられて、神様の前で行うべきこと。正しい行いということです。そのことをイエス・キリストはなさろうとしている。罪の赦しをいただけるように悔い改め、罪を告白する。それが神様の前で正しい行いということです。そのことを率先して真っ先に人々の前で行う。神様が求められる正しいことを、イエス・キリストは自分から先立ってなさろうとする。そのことを示そうとされたわけです。それが正しいということです。そうしますと、そこまでおっしゃるイエス・キリストに対して、もはやヨハネはそれをお押しとどめるということはできませんでした。このようにして、ヨハネはイエス・キリストに洗礼を授けることになったのです。16節〜17節に「イエスは洗礼を受けると、すぐ水の中から上げられた。そのとき、天がイエスに向かって開いた。イエスは、神の霊が鳩のように御自分の上に降ってくるのを御覧になった。そのとき、『これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者』という声が、天から聞こえた。」とあります。イエス・キリストが洗礼を受けられたときに、天が開いて神の霊、聖霊が鳩のようにイエス・キリストの上に降ってくるのをご覧になり、そしてそれと同時に「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が天から聞こえた、ということだったのです。今日この箇所と同じような箇所が、福音書のマルコによる福音書とルカによる福音書にもあります。この新共同訳聖書では、小見出しの下に同じような箇所がどこにあるかということが示されております。その箇所を見ますと、この17節ですけれども、ちょっと違っております。マルコによる福音書やルカによる福音書では、「これはわたしの愛する子」という箇所が、「あなたはわたしの愛する子」となっています。ルカによる福音書とマルコによる福音書では、イエス・キリストに対して神様が語りかけておられる。天の父なる神様とイエス・キリストとの間の話になっている。しかし、わたしたちが今日読んでおります、この「これはわたしの愛する子」というのは、イエス・キリストとの一対一との関係における対話ではありません。この話を聞いておりますわたしたちも含む人たち、この洗礼の場にいるヨハネも含めて、周りにいた人々たちに対しても、神様はこのようにおっしゃったのです。この「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」というところですが、これは旧約聖書との関連性を考えますと、一つの箇所との繋がりがわかってまいります。それが今日皆さんと先ほど読みました旧約聖書のイザヤ書42章の1節から9節の、その1節です。「見よ、わたしの僕、わたしが支える者を。わたしが選び、喜び迎える者を。彼の上にわたしの霊は置かれ/彼は国々の裁きを導き出す。」とあります。彼はわたしの僕だと。わたしが選び、喜び迎える者だ。彼の上にわたしの霊は置かれ、とあります。これは、聖霊が鳩のように降った、ということとも関連しています。イエス・キリストと天の父なる神様だけの会話ではなくて、このわたしの子であるこのイエスこそ、人間の救い主であると宣言されているのです。イザヤ書ではこの42章以降がいわゆる「主の僕の歌」と呼ばれています。そこには主の僕が人々の罪をすべて背負って、わたしたちの代わりに苦しみを受け、それによって罪の赦しが与えられる。そのことが特に53章に述べられています。これは、わたしの僕、わたしの心に適う者である。主の僕であるイエス・キリストがわたしたちの代わりに刑罰を受けてくださって、苦しみを受けてくださって、わたしたちの罪が赦され、救いが与えられる。そのことが、旧約聖書で預言されているのです。

      さて、今わたしたちには父と子と聖霊の名によって洗礼が与えられています。その洗礼は、ヨハネが授けていました悔い改めの印である洗礼というものを受け継ぎながら、洗礼が悔い改めの印だけではなく、イエス・キリストの十字架の死による罪の赦しと復活による新しい生命、永遠の生命の印でもある洗礼ということなのです。キリストの体なる教会は、そのように洗礼を受けた者たちの共同体です。そしてその洗礼を受けた者は聖餐にあずかることができる。十字架で流された主の血、そして裂かれた体とにあずかって、それによる罪の赦しの恵み、救いの恵みを味わいつつ、共同体の一員であるわたしたちは、お互い仕え合い、愛し合ってこの地上の、この生涯を歩んでいくのです。そして、わたしたちの先頭には、「正しいことをすべて行うのは我々にふさわしいことです」とおっしゃった、イエス・キリスト、わたしたちに先立って率先して神様の前で正しいことを行ってくださるイエス・キリストがいてくださいます。共にわたしたちと歩んでくださっているのです。そのことに感謝して、歩んでいくことができるように祈り求めてまいりましょう。

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