2022.12.18 待降節第4主日礼拝
イザヤ書 第7章10〜14節
ローマの信徒への手紙 1章1〜7節
マタイによる福音書 第1章18〜25節
                          

「神われらと共にいます」

本日は「マタイによる福音書」を中心に御言葉に聴いてまいりましょう。

 1章18節後半に「母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった」とあります。淡々と書かれていますが、ヨセフにとってこれはとても深刻な出来事でした。彼は、婚約者マリアが、自分によってではなく妊娠したことを知らされたのです。それは婚約者マリアへの信頼を失わせる出来事です。二人でこれから家庭を築いていく前提となる信頼が決定的に損なわれ、まだ歩み出してもいない家庭がもう崩壊の危機に陥ったのです。マリア自身は、ヨセフを裏切るようなことはしていません。他の男と関係を持ったりはしていないのです。でもこれから次第におなかが大きくなっていくという事実の前では、どんな説明も通用しません。

 それでヨセフは決心します。19節。「夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した」。「正しい人」であるヨセフは、マリアへの疑いを持ったままで夫婦になることはできずに、縁を切ろうとしたのです。彼が「マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した」というところに、彼の精一杯の優しさを見ることができます。当時の掟においては、婚約をしている女が他の男と関係を持つことは姦淫の罪であり、それを表沙汰にしたら、マリアは石打の刑すなわち死刑になってしまうかもしれないのです。それをせずに、密かに婚約を解消するというのは、そうすれば、マリアが子供を生んでも少なくとも姦通の罪に問われることはなくなるからです。つまりヨセフが「正しい人であった」というのは、ただ間違ったことを嫌い、正義を貫こうとしていたというのではなく、優しさや思いやりを持っていた、ということなのです。しかしそのヨセフの正しさ、優しさ、心の広さをもってしても、表沙汰にせず密かに縁を切ることが精一杯だったのです。

 20節に「このように考えていると、主の天使が夢に現れて言った」とあります。「このように考えていると」という言葉に、彼がマリアとのことで深く苦しみ、悩んでいたことが示されていると思います。そのように苦しんでいた彼のもとに、主の天使が夢に現れて語りかけたのです。天使は彼に、「恐れず妻マリアを迎え入れなさい」と言いました。そして、マリアの胎内の子は聖霊によって宿ったのだと告げ、生まれてくる子をイエスと名付けなさいと命じたのです。つまり主なる神は、マリアはあなたを裏切ったのではなくて聖霊によって身ごもったのだ、だから安心して彼女を妻として迎え入れ、生まれてくる子どもにイエスと名づけなさい、とお命じになったのです。イエスという名前は「神は救い」という意味です。だから「この子は自分の民を罪から救うからである」と語られているのです。マリアが生む子は、神の民を救う救い主となる、救い主にふさわしいイエスという名前をあなたがその子につけなさい、と主はヨセフに命じたのです。

 この主なる神の言葉を聞いたヨセフはどうしたでしょうか。24、5節に「ヨセフは眠りから覚めると、主の天使が命じたとおり、妻を迎え入れ、男の子が生まれるまでマリアと関係することはなかった。そして、その子をイエスと名付けた」とあります。つまりヨセフは、主なる神の御言葉の通りにしたのです。マリアは聖霊によって身ごもった、それは常識的にはあり得ないことです。それを証明できる証拠など何もありません。しかし、彼は主なる神のお言葉を信じて、マリアを信頼して、妻として迎え入れたのです。そして彼女が身ごもっている子を無事出産できるように心を配ったのです。そして生まれた子に、主のお言葉の通りにイエスと名づけたのです。このヨセフの、主の御言葉を信じて、それに従う決断と行動のおかげで、主イエス・キリストは、無事にこの世に生まれてくることができたし、イエスという名をもって成長していくことができたのです。 またこのヨセフの決断によって、旧約聖書に語られていた救いの預言が実現したのだとマタイは語っています。その預言とは23節の、「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる」です。それは本日共に読まれた旧約聖書の箇所、イザヤ書7章14節です。インマヌエル、それは「神は我々と共におられる」という意味です。主なる神が共にいて下さる、そのことが、おとめマリアが主イエスを生むことによって、つまりヨセフの信仰の決断によって実現したのです。

 ここに、神が共にいて下さるとはどういうことなのかが示されています。神が共にいて下さるとは、なんとなく一緒にいて支えて下さっているということではありません。主なる神は、ご自分の独り子の運命をヨセフの信仰の決断に委ねられた、そのようにしてわたしたちと共におられるのです。天使のお告げによってヨセフは、共におられる神の語りかけを聞いたのです。「私の独り子をあなたに委ねる、あなたがマリアを受け入れてくれなければ、聖霊によって宿ったこの子は生きていくことができないし、救い主としての業を行うことはできない、だからこの子をあなたの子として受け入れ、この子の父になって欲しい。そのための苦しみを引き受けて欲しい」、そのように神が語りかけておられるみ声を聞いたのです。ご自分の独り子の運命を、この自分に委ねておられる、神がそのようにして自分と共におられることを彼は知ったのです。「インマヌエル」とはそういうことです。「神は我々と共におられる」ということを、「神がいつも一緒にいて自分を守り、助けて下さる」とだけ思っているうちは、インマヌエルの意味は分からないのだと思います。神は、み言葉を信じてそれに従って生きるという私たちの信仰の決断を求め、期待し、待っておられるのです。その期待に応えて御言葉を信じて生きていく時にこそ、神が共におられることが分かっていくのです。

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