2022.12.4 待降節第2主日礼拝
イザヤ書 第11章1〜10節
ローマの信徒への手紙 第15章4〜13節
マタイによる福音書 第3章1〜12節
                          

「救い主を待ち望む信仰」

 わたしたちは現在、アドベント、待降節のときを過ごしております。待降節はクリスマスまでの日々を祈りつつ、クリスマスまでの備えのときを過ごす期間です。今日はマタイによる福音書を中心に、御言葉に聴いてまいりましょう。

3章1節に洗礼者ヨハネという人が、荒野に現れたとあります。彼は人々に「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言いました。ここで「悔い改めよ」とヨハネは述べています。訴えています。この悔い改めるという言葉は、福音書に何度も出てまいります。悔い改めるというのは、わたしたちが過去にしでかしてしまった過ちや罪の行いを一つ一つ数え上げて反省する。「なんであんなことしてしまったのだろう」と悔いるというように、わたしたちは、そういう意味で捉えてしまいがちですけれども、(もちろんそういう意味もあるのですが)本来の意味は「方向転換」するというのが、この悔い改めるということの正確な意味です。神様に立ち返る、神様から背き、顔を背けていた、わたしたちの方向を全身を神様に向き直るというのが、この悔い改めるという意味なのです。神様を信じて生きているわたしたちですが、わたしたちは弱い者たちなので、いつも度ごとに神様に背き逆らってしまう、そのような者たちなのです。わたしたちは、神様に背き、逆らっているわたしたちを赦してくださいと、神様に度ごとに向き直ることが求められています。神様に立ち返れと、ここでヨハネは民衆に訴えるのです。ヨハネは荒野で、悔い改めのしるしとして洗礼を授けていたのでありましたけれども、7節に、その洗礼を受けるためにやってきた、多くの人たちの中にファリサイ派やサドカイ派の人々が大勢来ていた。そのことを見て、ヨハネがこう言ったとあります。「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。悔い改めにふさわしい実を結べ。」とあります。「悔い改めにふさわしい実を結べ」─これは実際わたしたちに対する、このヨハネの言葉だと捉えてもいいのです。そもそもわたしたちが悔い改めるということ、先ほど申し上げましたけれども、神に背き逆らっていたこのわたしたちのこの姿勢を、しっかりと神様の方に向き直るということ。そのことは弱いわたしたちにとってはいつも簡単にできることではありません。わたしたちはともすれば自分を中心に生きてしまう。それが罪ということなのですけれども。神様を信じて、神様を中心にして生きているといつも思っていながら、しかし、実はわたしたちは自分自身を中心に生きてしまっている。神様を拝むのではなくて、自分自身の欲望を神様として拝んでしまう。神様にいつも背き逆らって生きてしまうのです。

 それでは、ヨハネが求めるように、悔い改めにふさわしい実を結ぶことが、わたしたちにはついにはできないのでしょうか。わたしたちは、しかし、わたしたちが悔い改めるためにイエス・キリストが十字架にかかってくださったということを、しっかりと心に留めなければならないのです。悔い改めることができない、いつも神様に背き逆らって生きてしまうわたしたちのために、イエス・キリストはこの世に来られて、十字架にかかって死んでくださいました。それがわたしたちに与えられた罪の赦しということなのです。わたしたちは自分を中心に生きてしまう。その罪から自分の力では逃れられないわたしたちのために、イエス・キリストは十字架にかかってくださったということ。わたしたちの罪を滅ぼすために十字架にかかってくださり、復活してくださったのです。わたしたちが悔い改めにふさわしい実を結ぶために、イエス・キリストは十字架にかかってくださったと言ってよいのです。そのことを、わたしたちはしっかりと心に留めなければならない。自分の力でできないのであれば、聖霊の力をお借りする。キリストの力を、天の父なる神様の力を請い求める、それしかないのです。

 しかし、神様はわたしたちがたくさん献金したからといって、教会の奉仕の業に一生懸命励んだからといって、わたしたちにそういう力をお与えくださるのではありません。神様は自動販売機のようなお方ではない。わたしたちが善き業に励めば励むほど、神様から救いが得られるのであれば、神様がわたしたちの支配下にあるということになってしまう。そんなことはありえないのです。神様は神様の自由なお考えで、恵みとしてわたしたちに救いをお与えくださる。悔い改めにふさわしい実を結べるようにしてくださる。恵みとしてわたしたちは神の救いを受ける。悔い改めの実を結ぶことができれば、そのような行いができれば、わたしたちに救いが与えられるということではないのです。それでは、わたしたちはどのように生きればよいのでしょうか。

 わたしたちが神様の救いを求めて、神様の憐れみによりすがって生きる。自分の十字架を背負って、主の御後に従うことが大切です。しかし、救いをいただくためにそのようにするのではない。「自分の十字架を背負って、主の御後に従うこと」は神の民として生きるわたしたちの務めなのです。そのようにわたしたちが生きるときに、恵みとしてわたしたちに救いが与えられるのです。神様からの自由意思による恵みとして、恵みの一つとして、わたしたちは悔い改めにふさわしい実を結ぶことができるようにしてくださる。悔い改めをすることができる。悔い改めも神様の恵みということなのです。わたしたちが何かをしたことによって、恵みが与えられるということではありません。神様のみ言葉に従って歩むときに、恵みとして神様が与えてくださるのです。「神の恵み」とは神様が自由意志でわたしたちに与えてくださるものです。わたしたちが神様をコントロールしてそのように、仕向けるのではない。神様とわたしたちとの取引ではない。わたしたちはそのことをひたすらに信じて、神様の御力を、聖霊の力をいただけるようにひたすらに祈って、乞い願って歩むことができるように、この待降節のときを過ごしていきたいと思うのです。

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