2022.11.20 聖霊降臨節第25主日礼拝
エレミヤ書 第23章1〜6節
コロサイの信徒への手紙 第1章11〜20節
ルカによる福音書 第23章32〜43節
                          

「きょうイエスと一緒に楽園に」

 本日は、ルカによる福音書を中心に、御言葉に聴いてまいりましょう。

 きょうの聖書のところは、わたしたちの救い主イエス・キリストが無実の罪で十字架にかけられ殺されるという、とても大きな出来事が記されています。イエス・キリストが十字架にかけられ、死なれる。この場面は聖書の中でもとても大きなクライマックスの一つです。

 そのような状態の中で、イエス・キリストの十字架の右と左に十字架にかけられていた二人がおりました。39節にそのうちの一人が主イエスをののしったとあります。「十字架にかけられていた犯罪人の一人が、イエスをののしった。『お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ。』」。そしてもう一人の人が、この最初の人が言った言葉、その言葉をたしなめたわけです。40節41節「すると、もう一人の方がたしなめた。『お前は神をも恐れないのか。同じ刑罰を受けているのに。我々は自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。』」。彼はこのイエス・キリストという人をどのぐらいまで知っていたのかはわかりません。イエス・キリストがどういう方かという知識はほとんどなかったと思われます。しかし、それにもかかわらず、「この方は何も悪いことをしていない」と言います。この人は無実の御方だと。そして、お前は神をも恐れないのかと、このもう一人の人をたしなめるのです。なぜこの人はイエス・キリストが罪のないお方だということがわかったのでしょうか。それはおそらくこのイエス・キリストのお姿、振るまい、イエス・キリストの祈り、すなわち「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」と驚くべきとりなしの祈りをなさった。そのようなイエス・キリストの言葉と行いを見て、この方は無実の方であるどころか、人間以上の力をお持ちである御方だと、彼は気がついたのです。その御方をののしるということは、神をも恐れない所業、行いであると彼にはわかったのです。

 そして42節ですが、「そして、『イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください』と言った。」とあります。「あなたの御国においでになるとき」とは、終わりの日、全てのものが滅び、新しい天と新しい地が造られるその時、神の右に座しておられるイエス・キリストが、このわたしたちの住む地上に再びおいでになる。そのときが再臨と言われておりますけれども、神の国が完成するそのとき。そのときを表しております。その終わりの日に、わたし思い出してください、とこの人は主イエスにお願いします。この人はそれまで神を信じる信仰を持っていたかどうかはわかりません。しかしここまで、イエス・キリストにお願いできるほどの、このような信仰が与えられたのか。それは救い主イエス・キリストがこの十字架で死なれるという、この大きな出来事の真っ只中で、この人がこの犯罪人が、救い主イエス・キリストに出会ったからこそこの人にこのような信仰が与えられたのです。彼がそれまでどのような生涯を送ってきたのかは一切ここでは記されておりませんが、この「いまわの際」で生涯の最後に、イエス・キリストに出会わせていただき、信仰を与えられ、悔い改めが与えられた。そのことがここで述べられているのです。

 43節には「するとイエスは、『はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる』」とあります。聖書には、死んだらお花畑のようなきらびやかなところに行けるというような考えは一切ありません。ここで言われている「楽園」とは、死んだら行くお花畑のようなところなどではありません。これは、今日、神様の祝福、神様の救いが与えられるということが示されているのです。「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と、主イエスはおっしゃる。この「今日」という言葉は、ルカによる福音書のルカが度々用いる言葉です。以前読みました19章の徴税人ザアカイのお話を思い起こしていただきたいのですけれども、ザアカイが、自分が決まり以上に税金を多く取った分をその人たちに返します、ということをイエス・キリストに言ったと、徴税人ザアカイの話にありますけれども、そこで「今日、救いがこの家を訪れた」「人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである。」とイエス・キリストがおっしゃいました。同じように「今日あなたに救いが訪れた。神の祝福が与えられた」とここでイエス・キリストがこの十字架につけられた犯罪人に宣言したのです。わたしはあなたと一緒にいる。苦しみの極みの中でもあなたと一緒にいる。あなたは悔い改めてわたしに従いなさい、とイエス・キリストは、おっしゃったのです。主イエスは彼を招いてくださったのです。それはまさに救いの招きです。その招きにあずかる。そういうことにおいては今日ここに礼拝に集っているわたしたちも、同じように神様の招きにあずかっているということなのです。彼は「いまわの際」に、地上の生涯の最後に神様の招きにあずかりました。そして、彼に救いの恵みが与えられたということなのです。

 人は悔い改めることに遅すぎるということはありません。洗礼を受けるということにおいても、病床洗礼という形で神様の救いのうちに入れていただける。そういうこともしばしばあります。わたしたちにそのような救いが与えられるということは、わたしたちの努力や功績によるということではないのです。それはまさに神様の恵みであり、神様の招きということです。わたしたちはいつもそのような神様の救いの招きを受けているのです。わたしたちもその招きに答えて、神様への信仰をはっきりと言い表して、しっかりと主の御跡に従い行くことができるように祈り求めてまいりましょう。

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