2022.11.13 聖霊降臨節第24主日礼拝
マラキ書 第3章19〜24節
テサロニケの信徒への手紙二 第3章6〜13節
ルカによる福音書 第21章5〜19節
                          

「忍耐して命を得る」

 本日はルカによる福音書を中心に御言葉に聴いてまいりましょう。

 主イエスはきょうの聖書箇所の最初で、壮麗なエルサレムの神殿が「一つの石も崩されずに他の石の上に残ることのない」ように徹底的に破壊される日が来る、と予告なさいました。ユダヤ人たちにとってエルサレム神殿は、信仰の拠り所であり、民族の存在の基盤でした。それが破壊されることは、彼らにとってこの世の終わりを意味するような出来事です。この神殿崩壊の予告によって主イエスは彼らを、「この世の終わり」に直面させておられるのです。このことから始めて、主イエスはここで、この世の終わり、終末についての教えを語っていかれたのです。

   主イエスはきょうのところの全体で、この世の終わりに向かう歩みにおいて生じる二種類の苦しみを見つめておられます。一つは、人災や天災によって生じる災いによる苦しみです。それは全ての人に共通して襲って来る苦しみであると言えます。しかし、それと並んで、信仰者が、信仰のゆえに受ける苦しみがあると語っておられるのです。それは信仰者のみが体験する苦しみであり、主イエスを信じ従っていないならば受けることのない苦しみです。信仰をもって生きる時に、あなたがたはそういう苦しみをも必ず体験することになる、と主イエスは語っておられるのです。第一の、全ての人に共通する災い、苦しみを見つめつつ主イエスがお与えになった勧めは、「おびえてはならない」(9節)です。第二の、信仰者のみが体験する苦しみを見つめつつ語られている勧めは何でしょうか。それが19節の「忍耐によって、あなたがたは命をかち取りなさい」ということなのです。

 信仰者が信仰のゆえに受ける苦しみ、それは一言で言えば迫害の苦しみですが、主イエスはそれを、いわゆる「迫害」よりも広い意味で、信頼できるはずの信仰の友からも裏切られてしまうという苦しみをも含んだものとして見つめておられます。つまりこれは信仰のない人々から受ける苦しみであるのみでなく、むしろ信仰者同士の交わりの中で生じる苦しみでもあるのです。そのようなまさに信仰のゆえに受ける苦しみにおいて主イエスがわたしたちに求め、勧めておられるのは、忍耐することです。忍耐することによって、「命をかち取りなさい」ということなのです。ここで使われている「忍耐」という言葉の元々の意味は、何かの下に留まっている、ということです。忍耐するとは、そこに留まり続けること、言い換えれば、そこから逃げ出さないことです。迫害を受け、信頼できるはずの友にも裏切られ、すべての人に憎まれてしまっているように感じられる時にも、その場を逃げ出さずに、そこに留まり続けること、それが忍耐です。信仰のゆえに受ける苦しみにおいてはこのことが何よりも大切なのです。それは具体的に言えば、神様を信じる者として、主イエスに仕える者として留まり続け、教会の礼拝に通い続ける、それが忍耐することなのです。

 その忍耐によってこそ「命」が得られると主イエスは語っておられます。いったいどういう命がそこで得られるのでしょうか。13節に「それはあなたがたにとって証しをする機会となる」とあります。「それ」というのは、迫害を受け、会堂や牢に引き渡され、主イエスの名のために王や総督の前に引っ張って行かれることです。そういう迫害の苦しみから逃げずに、そこに留まり続けるなら、それはわたしたちにとって証しをする機会となるのです。証しをする、というのは、イエス・キリストのことを、主イエスによって与えられた神様の救いの恵みを人々に語り伝えること、つまり伝道することです。信仰のゆえにこそ味わう苦しみの中に忍耐をもって留まり続けることが、証し、伝道の機会となるのです。その場合の「証し」とは、自分の信仰を堂々と力強く語る、という「証し」のみが考えられているのではありません。むしろ、その人が、主イエスを信じる信仰に生きており、そのためにこのような苦しみを受けていながら、なお逃げ出さずに信仰に留まり続け、信じている主イエスに忠実に生きている姿こそが、どんな立派な演説よりも証しになるのです。その人の生きている姿や態度そのものが、「主イエスこそ救い主である」と証ししているのです。忍耐によって命をかち取ることができる、とはそういうことです。その命とは、生きている姿そのものが主イエスを証ししているような命、主イエスこそその人の救い主であり、その人を生かし、慰め、力づけている方だということが自然に分かるような命です。信仰のゆえの苦しみを忍耐してそこに留まり続けることによって、わたしたちはそのような命を生きる者となるのです。主イエスは、信仰をもって生きる者がその信仰のゆえに必ず受ける苦しみを見つめさせ、忍耐してその苦しみの中に留まり、それを背負って生きるようにとわたしたちたちに勧めておられるのです。  きょうの聖書箇所で様々な災害の苦しみを見つめつつ語られておりますのは、それらによってこの世が終わるのではない、ということです。この世界は、主イエスがもう一度来られ、今は隠されているそのご支配が誰の目にもあらわになり、完成することによってこそ終わるのです。だから、災害などの苦しみの中でも、「おびえてはならない」と言われているのです。本日の所における、信仰のゆえの苦しみもそれと同じ流れの中で見つめられています。つまり迫害に代表されるその苦しみも、終末へと向かうこの世の歩みの中のみにおける苦しみなのであって、主イエス・キリストのご支配が完成する世の終わりにおいては、それらは全て解消され、取り除かれるのです。その終わりの時における救いの完成を信じ、それを待ち望むがゆえに、私たちは今この世においてその苦しみを忍耐し、逃げ出さずにその中に留まり続けることができるのです。そして、わたしたちが信仰のゆえの苦しみの中に忍耐して留まり続けるなら、たとえそこで死ぬことがあるとしても、なおわたしたちの証人としての命は、わたしたちを守り導いてくださっている、その神様の御手の内にあるのです。

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