2022.11.6 聖霊降臨節第23主日礼拝
ヨブ記 第19章23〜27a節
テサロニケの信徒への手紙二 第2章1〜12節
ルカによる福音書 第20章27〜38節
                          

「生きている者の神」

本日は、ルカによる福音書を中心にみ言葉に聴いてまいりましょう。

 きょう皆さんと聴いてまいります聖書箇所に、「復活についての問答」という小見出しがついております。イエス・キリストに対してサドカイ派という人たちが復活についてイエス・キリストに論争を挑んでいるという話です。

 27節に「さて、復活があることを否定するサドカイ派の人々が何人か近寄って来て、イエスに尋ねた。」とあります。サドカイ派という人たちは、復活はないと考えておりましたので、そのことについてイエス・キリストに論争を挑んだのです。

 28節に「先生、モーセはわたしたちのために書いています。『ある人の兄が妻をめとり、子がなくて死んだ場合、その弟は兄嫁と結婚して、兄の跡継ぎをもうければならない』と。ところで、七人の兄弟がいました。長男が妻を迎えましたが、子がないまま死にました。次男、三男と次々にこの女を妻にしましたが、七人とも同じように子供を残さないで死にました。最後にその女も死にました。すると復活の時、その女はだれの妻になるのでしょうか。七人ともその女を妻にしたのです。」とあります。これはいまはわたしたちには考えられないことでありますけれども、レビーラト婚という制度であります。実際に当時は、このような制度がありました。なぜこのような制度があったのか。子供が生まれるということ。そして、それを代々その家が存続していくということは、神様の祝福を受けているということをユダヤ教の人たちは考えていたのです。それなりの財産を持っている家などは特に、神様からいただいたその祝福を子々孫々まで受け継いでいくということ。そのことがとても大事なこととされていたのです。

 そういうことを考えますと、もし復活ということがあるとするならば、この七人の兄弟と結婚して、子供はないまま死んだこの女性は、一体誰の妻になるのかということを、サドカイ派の人たちは疑問として矛盾として、イエス・キリストにぶつけたわけです。

それに対してイエス・キリストは、次のようにお答えになりました。34節以下「この世の子はめとったり嫁いだりするが、次の世に入って死者の中から復活するのにふさわしいとされた人々は、めとることも嫁ぐこともない。この人たちは、もはや死ぬことがない。天使に等しい者であり、復活にあずかる者として、神の子だからである。」とあります。この復活ということは、どういうことなのか。死んで生まれ変わる。その復活というのは、わたしたちが死んだときのそのままで復活するのだろうか。わたしたちが例えば死んだ歳、63歳で死んだならば、復活したら63歳の年、肉体のままよみがえるのだろうか。障害を持ったり、病気にだった人たちは、復活したとき病気の状態で、あるいは障害を持った状態でよみがえるのだろうか、というようなこともわたしたちは疑問として考えるのです。

 しかし、イエス・キリストはそのようなことは違うとおっしゃるのです。この復活のからだというのが、生前のそのまま、その世界がそのままスライドして、あの世でそのまま生まれる。わたしたちのこの世の生活の延長線上に復活というのがあるのではない。これは新しい命なのだとイエス・キリストはおっしゃるのです。35節から36節に「次の世に入って死者の中から復活するにふさわしいとされた人々は、めとることも嫁ぐこともない。この人たちは、もはや死ぬことがない。天使に等しい者であり、復活にあずかる者として、神の子だからである。」とあります。わたしたちが死んだそのままの体でよみがえるというような、単純なことではないのだとおっしゃる。天使に等しい者であり、もはや死ぬことがない、永遠の命をいただいて生きる者。神の子だからである、とまでイエス・キリストはおっしゃるのです。わたしたちの復活の命というのは、生前誰と結婚していたとか、どうとかということがそのまま延長されて、再現されるということではないということです。

 イエス・キリストがここでおっしゃる復活、復活の命というのは、死ぬ前の命とは異なる新しい命だということなのです。それでは、いつわたしたちは復活の命を与えられるのでしょうか。それは終わりの日と聖書では記されています。新しい天と新しい地が作られるその日、天の父なる神様の右に座しておられるイエス・キリストが、再びは来られる日。この世が完全に滅んで、その後造られる新しい天と新しい地その世界。その世界が造られるときに、わたしたちもまたよみがえりの命をいただける。それがわたしたちに与えられる神様のお約束です。わたしたちはこの地上の生涯で、様々な悩み苦しみ、悲しみがありますけれども、しかし、わたしたちが死んだ後に、終わりの日に復活の命を与えられて、永遠の命に生きる希望が与えられているということ。そのことがイエス・キリストを信じて生きるわたしたちにとっての大いなる希望なのです。

 わたしたちは、いつか必ずこの地上の生涯を終えるのですが、しかし、死んでも生きる命に生かされる。それはイエス・キリストが十字架にかけられて死なれ、そしてよみがえられてご自身が永遠の命に生きておられるということ、わたしたちはそのイエス・キリストを信じるからこそ、わたしたちにもまた永遠に生きる命が与えられているということなのです。わたしたちは必ず誰でも例外なくこの地上の生涯を終えるときが来るのですが、死んだ後もわたしたちは永遠の命に生かされるのです。それは神様が生きている者の神だからこそなのです。いまわたしたちがこの生きている命は永遠の命に生きる新しい命につながっているのです。それはわたしたちがキリストを信じているからこそ与えられている新しい命だ、ということです。わたしたちが終わりの日に復活して生きる永遠の命は、その時から与えられるということだけではなくて、いまキリストが永遠の命を生きておられる、復活の命を生きておられる、そのイエス・キリストを信じるときに、わたしたちはいま、その永遠の命にあずかっている、連なっていると言ってよいのです。わたしたちはこの地上の生涯において、楽しいこと嬉しいことよりも、苦しいこと悲しいことがの方がはるかに多い人生を生きておりますが、どのような状態にわたしたちがあっても、永遠の命に生きる希望、永遠の命にあずかっているということ。すでにわたしたちはイエス・キリストの復活の命、永遠の命にあずかって生きているということ。そのことをわたしたちの大いなる希望と慰めとして、しっかりと心に抱き、いまを生きる者たちとされたいと思うのです。

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