2022.10.30 聖霊降臨節第22主日礼拝 《宗教改革記念礼拝》
イザヤ書 第1章10〜18節
テサロニケの信徒への手紙二 第1章11節〜2章2節
ルカによる福音書 第19章1〜10節
                          

「救いがこの家に訪れた」

本日は、ルカによる福音書を中心に御言葉に聴いてまいりましょう。

本日出てまいります登場人物はイエス・キリストの他に、徴税人ザアカイという人が出てまいります。この徴税人と言われる人たちは、当時ユダヤの支配者であったローマ帝国のために税金を徴収する役目を担っていました。ユダヤではとても軽蔑されている人たちでした。異教の国ローマ帝国に税金を納めるということは、ユダヤ人たちにとっては、とても屈辱的なことでありました。そのため、この徴税人に対しては強い反発をユダヤ人たちは持っていたのです。そして徴税人たちは正当な税金の額を超えて税金を徴収していました。余分に税金を取って、その上前をはねて、私服を肥やすということをこの徴税人たちはしていたのです。そのため、ただでさえこの徴税人に対して反感を持っていたのですが、そういう不正なことをして、私服を肥やしていたということもありまして、この徴税人たちは、ユダヤ人たちから大変軽蔑されていました。

徴税人ザアカイは、エリコという町に住んでいましたが、イエスという人がエリコに来られるということを聞き、主イエスを一目見てみたい。ただ、物見遊山で、彼はその気持ちでイエスを見に行こうとしていたのですが、心のどこかに漠然としてではありますけれども、救い主を求めていたということが言えるのではないでしょうか。彼は背が低かったとあります。群衆に遮られて見ることができなかった。それで仕方なく彼は先回りして、いちじく桑の木に登ったとあります。彼は樹の上でイエス・キリストが通り過ぎられのを待っていました。主イエスがその場所に行きますと、上を見上げて言われました。5節「ザアカイ、急いで降りてきなさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい。」とおっしゃったのです。ザアカイはとても驚いたことでしょう。初めてお目にかかるイエス・キリスト。そのお方が自分の名前を呼ぶ。そのことを彼はどのように受け止めたのでしょうか。「急いで降りてきなさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい。」とまで言ってくださる。そして6節にありますように、「ザアカイは急いで降りて来て、喜んでイエスを迎えた。」とあります。彼は大変に驚いて、そして喜んでイエス・キリストを迎えたということなのです。この5節に「今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい。」とありますが、この原文のギリシャ語の意味を直訳いたしますと、「今日はあなたの家に泊まらなければならない。」となります。このザアカイの家に泊まることが、前からすでに決まっていたということです。必ずあなたの家に泊まらなければならない、とイエス・キリストはおっしゃる。ザアカイは驚いて、とにかくとても喜んで自分の家にイエス・キリストを迎えたということなのです。

8節に「しかし、ザアカイは立ち上がって、主に言った。『主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します。』」とあります。自分がだまし取っていたもの。それを四倍にして返す、そして自分の財産の半分を貧しい人々に施します、と彼は宣言しました。なぜ彼はこのようなことまで宣言できたのでしょうか。ユダヤ人たちから軽蔑され、嫌われている自分の家になど誰も来てくれない中で、全く予想していないことに、イエス・キリストはわざわざ来てくださった。そのことに彼は大変驚き、本当に喜んでイエス・キリストをお迎えすることができたのです。イエス・キリストとの出会いが彼を変えたと言っていいでしょう。彼は救い主との出会いによって、彼がそれまで唯一頼りにしていた自分の財産、依り頼んでいた財産を捨てる、手放すことができました。手放して隣人のために使う。隣人との愛の交わりに生きることができるように彼は変えられていったのです。そして彼は、イエス・キリストに従うものとされました。

9節と10節に「イエスは言われた。『今日、救いがこの家を訪れた。この人もアブラハムの子なのだから。人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである。』」とあります。救いがこの家を訪れたとイエス・キリストはおっしゃる。救いがこのザアカイの想像をはるかに超える仕方で、意外な形で訪れたということなのです。ザアカイが自分の罪を自覚して努力して、このようになったということではなくて、救い主イエス・キリストがわざわざ近づいてきてくださって、出会ってくださって、彼は変えられたのです。

なぜイエス・キリストがこのようなことまでしてくださったのでしょうか。10節に「人の子は、失われたものを探して救うために来たのである。」とあります。「失われたもの」とは、神様に背き離れてしまった者、罪人ということです。その罪人が悔い改めて元の通りに戻ってくる。そのことを神様は何よりも喜んでくださいます(ルカによる福音書15章)。その罪人を救うために、イエス・キリストはこの世に来られ、十字架にかけられ復活なさったということなのです。このザアカイは、わたしたちのことでもあります。わたしたちは「わたしは神様を信じている」といつも口では言いながら、わたしたちは度ごとに神様から離れてしまう。神様以外のものに心を向けてしまう。神様以外のものを頼りにしてしまいます。そういう意味では、わたしたちはこのザアカイと変わるところがないのです。

それでは、そのようなわたしたちが再び神様のもとに帰る。悔い改めるためにはどうすればいいのでしょうか。それは何よりもイエス・キリストが出会ってくださる。そのお姿をわたしたちが仰ぐ。そのことによって悔い改めへと導かれるのです。その出会いの場がこの礼拝なのです。わたしたちが、この弱い罪深いわたしたちが、悔い改めて神様の元に帰り、救いの道を歩んでいくことができるためには、この礼拝の場でキリストと出会うことが必要なのです。そのことをしっかりと心に留めて新たに変えられていくことができるように祈り求めてまいりましょう。

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