2022.10.16 聖霊降臨節第20主日礼拝
出エジプト記 第17章8〜13節
テモテへの手紙二 第3章14〜4章5節
ルカによる福音書 第18章1〜8節
                          

「気を落とさずに祈れ」

 本日は、ルカによる福音書を中心に御言葉に聴いてまいりましょう。  きょうのところで、主イエス・キリストは、弟子たちにたとえ話をなさいます。18章の1節には、「イエスは、気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを教えるために、弟子たちにたとえを話された。」とありますから、このたとえ話を主イエスがお話になった目的というのが、非常に明確に示されております。「気を落とさずに絶えず祈らなければならない」ことを弟子たちに、そしてわたしたちに教えてくださるために、イエス・キリストはきょうのところでわたしたちに語っておられるのです。

 きょうのたとえ話の登場人物は、やもめと裁判官です。聖書ではこの「やもめ」という立場の人たちは、弱い者の代表として出てきます。夫に先立たれた独身の女性ということです。当時の女性の立場は、今よりも遥かに弱い、社会的に保護されていない立場でありました。現代のように、女性が何とか一人で自活して生きていけるような仕事もほとんどありませんでした。そして裁判官。2節にありますが、「ある町に、神を畏れず人を人とも思わない裁判官がいた。」とあります。神を畏れず人を人とも思わない裁判官。不正な裁判官とありますけれども、そういう傲慢な裁判官がいたというのです。このやもめはその裁判官に対して、「私を守ってください。」「相手を裁いて、私を守ってください。」としきりにやってくる。この裁判官、神を畏れず、人を人とも思わない裁判官は、このやもめの訴えをしばらくの間は取り合おうとしなかった、とあります。しかし、そのような裁判官でありましたけれども、彼女がひっきりなしにやってきて、本当に諦めずに、しつこく訴えを取り上げてくれるように、きちんと裁いてくれるようにお願いをしたのです。そうしたところ、とうとう、この裁判官は彼女の本当に非常に強い熱意に負けて、彼女のために裁判をしてやろう、と思ったというのです。

 イエス・キリストはこのたとえによって、何をわたしたちに教えようとなさっているのでしょうか。気を落とさずに絶えず祈れということをイエス・キリストはわたしたちに教えようとなさっている。 わたしたちはそもそも、神様に対する祈りをいつも献げているのです。絶えずいろんなことで祈っているのです。しかし、わたしたちが神様に熱心に祈るときに、すぐにはわたしたちが期待する解決が与えられないこともしばしばあります。神様はこの世のもの全てを支配しておられます。時間をも支配しておられるお方です。神様はわたしたちの祈りは必ず聴いていてくださっているのです。その上で、わたしたちにとって最も良いときに、神様がわたしたちの祈りを叶えてくださる。そのことをわたしたちは深く心に止めなければいけないと思います。

 ひょっとすると、わたしたちの望んだような祈りの結果が、わたしたちが生きている間に起こらないかもしれません。しかし、わたしたちは、わたしたちが死んだ後イエス・キリストが天から降ってこられて、わたしたちを裁いてくださる。全ての人が裁かれる。そして復活の命を与えられ、永遠の命が与えられる。それまでの天と地は滅ぼされ、新しい天と新しい地がつくられるということが聖書に記されております。わたしたちはそのことを信じています。神の裁きがわたしたちが生きてる間に、わたしたちが望むような形で、見える形でなされないかもしれない。しかし、すでに神様は裁いていてくださっている。全てはこの主イエス・キリストが再び来られる日、終わりの日に全てのことが明らかにされるのです。そのことがわたしたちの希望です。

 それでは、なぜわたしたちは気を落とさずに絶えず祈らなければならないのでしょうか。それはイエス・キリストが、「神様がわたしの祈りは必ず聴き届けられている」と信じて絶えず天の父なる神様に祈られた御方だからです。

 わたしたちは選ばれている者たちです。7節にありますが、「まして神は、昼も夜も叫び求めている選ばれた人たちのために裁きを行わずに、彼らはいつまでもほうっておかれることがあろうか。」と主イエスはおっしゃっています。わたしたちは神の民として選ばれているのです。その者たちの祈りを神様がお聴きにならないはずはないのです。一生懸命に祈る。本当に神様に熱心に祈る。このやもめのように、うるさがられても祈る。もちろん神様は、この裁判官のようにうるさがるということはなさいませんが、このような神を畏れず、人を人とも思わない裁判官に対して、本当に訴え続けるということは、このやもめにとってはとても労力のいる苦しいことであったでしょう。しかし彼女は諦めずに訴え続けたのです。

 「求めなさい。そうすれば与えられる」と主イエスはおっしゃいます。逆に言えば、求めなければ与えられないということでもあります。わたしたちは祈らなければ祈りはきかれない、と考えていいと思うのです。自然科学の発達などによって、宗教に対する疑い、懐疑ということが言われてきました。わたしたちはともすれば、いつの間にか理性的に全てを判断してしまう。いつの間にかわたしたちの信仰というものが、生気のないカサカサしたものになってしまっていないでしょうか。わたしたちは、今こそこのやもめのように必死になって神様にすがりつく、むしゃぶりつくような熱心さでもって祈り続けていかなければならないのではないでしょうか。神様は必ずわたしたちの祈りを聴いてくださっています。そして、すぐにはその祈りは叶えられないかもしれませんが、いつか必ず神様が最も良いと思われるときに、神様はその祈りを叶えてくださるのです。そして最終的には終わりの日に裁いてくださる。そのことはわたしたちの大きな希望なのではないでしょうか。そのことによって、わたしたちは気落ちすることなく絶えず祈ることができるのです。わたしたちは、そのことを信じて諦めずに絶えず神様に祈っていく者とならせていただきたいと思います。そのようにこれからひたすらに祈ってまいりましょう。

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