2022.10.2 聖霊降臨節第18主日礼拝
ハバクク書 第1章2〜3節、2:2〜4節
テモテへの手紙二 第1章6〜8節、13〜14節
ルカによる福音書 第17章1〜10節
                          

「取るに足りないしもべです」

本日は、「ルカによる福音書」を中心に御言葉に聴いてまいりましょう。

 本日の聖書の箇所を読みますと、まずわたしたちが最初に受ける印象といいますのは、何かバラバラな感じを受けるのではないでしょうか。異なるお話がここに盛り込まれているというような印象をわたしたちは受けてしまいます。しかし、ここは一見バラバラのように読めるところですが、ひとつの中心的なテーマがあるのです。結論的に申しますと、このところは、信仰者として神様、イエス・キリストを信じる信仰者として、わたしたちはどのように生きるべきなのかということが、きょうのところで示されているのです。それではどのように生きろとおっしゃっているのか。それが本日の箇所の終わりのところ7節以下で述べられているのです。

   7節に、「あなたがたのうちだれかに、畑を耕すか羊を飼うかする僕がいる場合、その僕が畑から帰ってきたとき、『すぐ来て食事の席に着きなさい』という者がいるだろうか。」とあります。僕というのは、奴隷ということであります。イエス・キリストはわたしたちに向かって、あなたたちは僕として生きなさい、とわたしたちに命じておられるのです。それは誰の僕ということでしょうか。それは主の僕、キリストの奴隷として生きなさいということです。さらに8節以下ですが、「むしろ、『夕食の用意をしてくれ。腰に帯を締め、わたしが食事を済ますまで給仕してくれ。お前はその後で食事をしなさい』と言うのではなかろうか。命じられたことを果たしたからといって、主人は僕に感謝するだろうか。あなた方も同じことだ。自分に命じられたことをみな果たしたら、『わたしどもは取るに足りない僕です。しなければならないことをしただけです』と言いなさい。」とイエス・キリストは弟子たちにおっしゃるのです。「あなたたちはわたしの僕として奴隷として生きなさい。そのことが信仰者として生きる道である。」そうイエス・キリストはおっしゃるのです。この最後のところにありますけれども、「しなければならないことをしただけですと言いなさい」とありますが、ここで言われている「しなければならないこと」とはどういうことなのでしょうか。それがこの最初にあります1節から4節のところ、そのことがしなければならないこと、主の僕、イエス・キリストの奴隷としてしなければならないことの内容なのです。特に大切なことは3節と4節の「赦す」ということです。

「あなたがたも気をつけなさい。もし兄弟が罪を犯したら、戒めなさい。そして、悔い改めれば、赦してやりなさい。一日に七回あなたに対して罪を犯しても、七回、『悔い改めます』と言ってあなたところに来るなら、赦してやりなさい。」とあります。わたしたちに対してそのように罪を犯し続けている人に対して、赦しなさいということは、無条件でわたしたちは他人からされたこと、その罪の行いに対して赦しなさいということです。しかし、わたしたちはそのことを聴くときに、とても難しいことなのではないかと思います。人を赦すことは簡単にはできそうにない。

 それではわたしたちは、赦せるためにはどうすればいいのか、と考えます。そこで使徒たちがこの5節ですけれども、「わたしどもの信仰を増してください」と言ったとあります。わたしたちが信仰を増していただかなければ、人を無条件に赦すということはできないということを考えます。わたしたちの努力や力では、そのような赦しはできないと考えてしまう。これはわたしたちの信仰がもっとなければできないことであると考えてしまう。弟子たちはそのようにわたしたちと同じように考えたのです。しかし、イエス・キリストは次のようにおっしゃいます。6節ですが、「主は言われた。「もしあなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば、この桑の木に、『抜け出して海に根を下ろせ』と言っても、言うことを聞くであろう。」」。からし種一粒ほどの信仰があれば、というのです。「信仰を増してください」という弟子たちのお願いに対して、「からし種一粒ほどの信仰があれば」とおっしゃっている。これは何を意味しているのでしょうか。大切なことは、信仰が増すとかどうかということではなく、信仰があるかないかということを、イエス様は問題になさっているということです。その信仰があれば、その人の信仰を通してイエス・キリストが神様が奇跡を行ってくださるのです。その信仰が、わたしたちの信仰の力がそのような奇跡を起こすのではなくて、そのようなからし種一粒の信仰、わたしたちの信仰を通してそのような奇跡を神様は起こしてくださる。わたしたちが受けた、隣人から受けた傷、ひどいことをされたというわたしたちの傷。そのことに対して、わたしたちが赦せるようになるという、そのこと。それはまさに奇跡と言っていいのではないか。しかし、そのからし種一粒の信仰があれば、その信仰を通して神様はその赦しの奇跡を起こしてくださる、ということなのです。

わたしたちがその信仰があるということはどういうことなのでしょうか。それは、わたしたちが主の僕として生きること。そのことが信仰があるということを意味します。主の奴隷として生きる。それはすべてを神様からの恵みとして感謝するということです。わたしたちが主イエス・キリストの十字架によって与えられた神の恵みに与って神様に感謝して生きることです。それは自分の力により頼むのではなくて、全てを神様にお委ねして生きるということです。それは悔い改めるということによってでできるのであり、神様の方に向き直るということによってである。そしてそれができるようになるのは、前回申し上げましたけれども、御言葉に聴くということ。そのことによってわたしたちが主の僕として生きることができるようになるのです。

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