2022.9.25 聖霊降臨節第17主日礼拝
アモス書 第6章1a、4〜7節
テモテへの手紙一 第6章16節
ルカによる福音書 第16章19〜31節
                          

「金持ちとラザロ」

 本日は、ルカによる福音書を中心に御言葉に聴いてまいりましょう。

 主イエス・キリストは、弟子たちやファリサイ派の人たちに話をされました。ある金持ちがいて、その金持ちの家の門前にいつもラザロという貧しい人が来ていました。金持ちはラザロに施しをしてやることはありませんでした。その後、この金持ちがなくなってあの世に行くことになった。そうしましたところ、遠くにアブラハムのそばになんと、あのラザロがいたのを見たのです。その金持ちが連れていかれたところは、地獄のようなところでありまして、飲む水もない。炎熱地獄のような中を、彼は過ごさざるを得なかったのです。この金持ちはラザロをよこして、指先を水に浸し、わたしの舌を冷やさせてください。わたしはこの炎の中でもだえ苦しんでいます、とアブラハムに訴えました。しかし、アブラハムはこの金持ちのお願いを聞き入れてはくれなかったのです。

 アブラハムは、お前と、このわたしたちの間には、大きな淵、穴があって、行き来することはできないとこの金持ちに言いました。そうしたところ、そのラザロをわたしの兄弟のところに遣わしていださい、こんな苦しい場所に来ることがないように言い聞かせてください、とお願いしました。しかしアブラハムは、「お前の兄弟たちにはモーセと預言者がいる。彼らに耳を傾けるがよい。」と言って、その金持ちの願いを聞き入れてくれませんでした。この律法と預言者というのは、旧約聖書のことを意味しています。

 しかし、この金持ちは、「いいえ、父アブラハムよ、もし、死んだ者の中からだれかが兄弟のところに行ってやれば、悔い改めるでしょう。」と反論したのです。この金持ちの兄弟は、確かに旧約聖書を持っている。しかし、持っているだけである。それだけでは、彼らは悔い改めることはない。彼らによくわからせるためには、死んだはずのものが生き返って彼らの前に立つ。そのことをしてもらえれば、彼らは自分たちの過ち、自分たちの生き方を改めるでしょう、とお金持ちは思ったのです。しかし、アブラハムは彼に反論いたします。31節ですが、「もし、モーセと預言者に耳を傾けないのなら、たとえ死者の中から生き返る者があっても、そう言うことを聞き入れはしないだろう」と言いました。もし、モーセと預言者に耳を傾けないならということは、聖書に聴かないならば、たとえ死者の中から生き返った者が、たとえばラザロが彼らの前に現れるという奇跡を彼らが目にしたとしても、彼らは神の教えを聴き入れて、悔い改め、生き方を変えることはしないだろう、とアブラハムは金持ちに言ったのです。御言葉に聴くこと、聖書に聴くこと。しっかりとそのことがなされないならば、いくら死人が生き返ってその人の前に現れたとしても、そのことの意味がわからない。生き方を改めることはできないだろう、とアブラハムは語ったのです。

 わたしたちはともすれば、神様の教えを捨てて、自由気ままに生きることを望む、それこそ本当に自分の自由だと勘違いする。しかし、神様を捨てて、自由に生きることを選んだときに、わたしたちはどうなってしまうのでしょうか。それこそ、糸の切れた凧のように、フラフラとどこかに行ってしまう。非常に不安定なことになってしまいます。それこそわたしたちの滅びの道ということです。わたしたちは、自由を履き違えて神様からの束縛を嫌って、神様を捨てて、勝手気ままに生きようとする。そのような弱さをわたしたちは持っています。そんなわたしたちが、滅びの道から離れて、本当に自由に幸せに豊かな気持ちで生きることができるためには、わたしたちは、度ごとに神様の方に向き直って、悔い改めていかなければならないのです。

 30節31節に「金持ちは言った。『いいえ、父アブラハムよ。もし、死んだ者の中からだれかが兄弟のところに行ってやれば、悔い改めるでしょう。』アブラハムは言った。『もし、モーセと預言者に耳を傾けないのなら、たとえ死者の中から生き返る者があっても、その言うことを聞き入れはしないだろう。』」とあります。実はわたしたちこそがこの金持ちなのです。死者の中から生き返った者がわたしたちの前に現れて、そういう奇跡を見ることがなければ、わたしたちは神の教えを信じない。悔い改めることはない、ということはないでしょうか。わたしたちは神の言葉を信じるよりも、目に見えるしるしがあれば信じる、そういうことがわたしたちの心のどこかにないでしょうか。わたしたちは目に見えるしるしを見なければ信じない、と言ってしまう弱い者たちなのです。信仰とは、そういう目に見えるものを信じるのではなく、目には見えないけれども、何ものよりも確かな神様の御言葉。神様のお約束、そのことに信頼を置くことこそが信仰ということなのです。 それではわたしたちはどうしたら滅びの道を逃れて、滅びの道を歩むことなく、神様に向き直ることができるのか、神様のもとに立ち帰ることができるのでしょうか。悔い改めるには、どうすればよいのでしょうか。それは御言葉に聴くこと。モーセと預言者、聖書に聴くこと。旧約聖書・新約聖書の御言葉。神の御言葉に聴くによって、わたしたちは滅びの道を免れることができる、救いの道を歩むことができるのです。新約聖書ローマの信徒への手紙の中で、使徒パウロは、信仰は御言葉に聴くことによって始まる、起こされると述べています。元々わたしたちの中には、神様を信じる信仰はありません。それは、わたしたちが御言葉に聴くことによってこそ起こされる。神様を信じる信仰も、神様から与えられる賜物です。恵みなのです。わたしたちが悔い改めることなく、自分自身の力により頼んで、神様を捨てて勝手に生きるときに、わたしたちは、滅びの道を歩まざるを得ないのです。そこからわたしたちが救われるためには、悔い改めるということ、神様の方に向き直ること、御言葉に聴くことによってわたしたちに与えられるのです。

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