2022.9.18 聖霊降臨節第16主日礼拝
アモス書 第8章4〜7節
テモテへの手紙一 第2章1〜8節
ルカによる福音書 第16章1〜13節
                          

「富の正しい用い方」

 本日はルカによる福音書を中心に御言葉に聴いてまいりましょう。

 きょうのところで「不正な管理人のたとえ」ということで、イエス・キリストが弟子たちに向かってたとえば話をなさったのです。

 きょうのところは、そのイエス・キリストのたとえ話の中でも、最も解釈が難しいと言われております。ある金持ちがおりまして、その財産の管理を任せられていた人がおりました。それはおそらくこの主人が他人にいろんな物を貸して、お金やいろんな物を貸して、その利息を取っていたのでしょう。その管理人が不正を働いていた。主人の財産を無駄遣いしていました。主人から任されていたその財産をごまかしていた。何かたとえば横流しをして、それを自分のものにしている。私腹を肥やしているというようなことがあったのでしょう。そういう悪さをしているその管理人のことを、その主人に告げ口をする人がいたのです。そのことを聞き及んで、この主人は、会計報告を出せと命じたのです。そういうことを言われて管理人は、大変困ったわけです。その主人の財産をごまかしていたわけですから、いずれはばれてしまう。会計報告を出せと言われるのですから、ばれてしまうわけです。もし彼が財産の誤魔化しをしていたのであれば、それがばれれば、彼は必ずクビになるはずです。彼はクビになったところで、力仕事をする力もない。物乞いをするのも恥ずかしい。他の仕事をすることができない。そのことを彼はよくわかっていたのです。まず、彼は一生懸命自分が生き延びる術を考えました。一生懸命考えたところ、名案が浮かんだ。自分を助けてくれる人をつくろうとしたわけです。彼はここでも不正を働いて、法律上で言えば消費貸借契約ということになりますけれども、貸したものを返すということですが、借用書を取り交わしていたのでしょう。その借用書を書き直させて、借金借財の棒引きを彼はしたわけです。それによって、この借りた人たちは助かるわけです。恩義を感じる。借りができる。そうすれば管理人が、不正がばれてクビになっても、何とか面倒を見てもらえると管理人は目論んだのです。しかし、それもばれてしまうわけです。そうすればどうなるか。これは火を見るよりも明らかですので、普通はこの主人は、この管理人に対して大変怒るはずです。もうクビだと、もう出て行けと。クビだというどころか損害賠償を請求されるということもありうるはずです。当然これはそうなるに違いない。しかし、驚いたことにこの主人は、「この管理人のやり方をほめた」とあります。9節に、「わたしは言っておくが、不正にまみれた富で友達を作りなさい。」とあります。彼を罰するどころか、怒るどころか彼をほめたというのです。そして不正にまみれた富で友達を作りなさいとまで言った。これはたとえ話でありますから、この金持ち、この主人というのは、神様であり主イエス・キリストのことです。そしてこの管理人は、わたしたち、弟子たちであり、わたしたちのことをたとえているわけです。誰よりも正しいお方であるはずの神様、イエス・キリストが、不正にまみれた富で友達を作れとまでおっしゃっている。この管理人のやり方を褒めるということをなさる。悪いことをすることを勧めておられるかのような、このたとえです。誰よりも正しいお方であるイエス・キリストが不正を行うことをわたしたちに勧めておられるように、このまま読めば、捉えてしまいます。わたしたちはそのように聞いてしまう。これはどういうことなのでしょうか。ここでイエス・キリストが、友達を作りなさい、ということを言っています。不正にまみれた富で友達を作れ。この友達というのは、貧しい人であり、隣人のことです。富というのは、わたしたちが持っている富というのは、わたしたちの努力などで得たものであるようですけれども、しかし、これは元々神様のものであります。神様からの恵み、賜物としてわたしたちが預かっているにすぎないものです。わたしたちが持っているものは、わたしたちのものではなくて、本来は神様からの預かりものだということです。その富、それを隣人のため、友達のため、特に貧しい人のために用いなさい、とここでイエス・キリストはわたしたちにすすめておられるのです。10節をご覧いただきたいのですが、「ごく小さなことに忠実な者は、大きな事にも忠実である。ごく小さなことに不忠実な者は、大きな事にも不忠実である。」とあります。お金をどのように使うのかということ、神様から預けていただいた富、財産をどう使うのか。神様から預かったもの。それに対して忠実である。誠実である者は、賢くそのお金を使う。自分のためだけではなく、わたしたちが隣人との交わりをつくっていくときのために、貧しい人のために用いる。そういうことこそ、その富に対する忠実さ、ひいては神様に対する忠実さということなのです。イエス・キリストはきょうのたとえ話を通して、わたしたちに富の用い方、神様から預けられた、預けていただいたその富を、自分のためだけに使うのではなくて、隣人のため、隣人との交わりのため、そしてひいては、神の御業の前進のために用いる。それが、神様に対する忠実さ、誠実さにつながるということがここで示されているのです。

 わたしたちは、神様から預かっているこの富を神様のため、隣人のために忠実に用いることがなければ、わたしたちはたちまち自分の持っている財産と富に支配されてしまうのです(13節)。そういうわたしたちの弱さをイエス・キリストはよくご存知です。富の用い方ということを通して、わたしたちは、神様に対する忠実さに生きる。神の支配を神の国を受け入れる、そのことをわたしたちは求められているのです。そのことをしっかりと心に留めて生きるそのような者となれるように祈ってまいりましょう。

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