2022.9.11 聖霊降臨節第15主日礼拝
出エジプト記 第32章7〜14節
テモテへの手紙一 第1章12〜17節
ルカによる福音書 第15章1〜10節
                          

「罪人を救うために」

 ルカによる福音書の15章には三つのたとえ話が収められております。きょうの聖書の箇所は最初の二つを取り上げます。

 最初は「見失った羊」のたとえです。主イエスは、「自分が百匹の羊を持っていて、その一匹を見失ったとしたらどうするかを考えてみてごらん」と言っておられます。そして、もしそうだったら、「九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか」、誰でも当然そうするだろう、とおっしゃったのです。

 それでは、主イエスがこのたとえによって語ろうとしておられることはどういうことなのでしょうか。その答えは、ごく単純に、「あなたがたも、自分の大切なものがなくなったら、必死に探し回るだろう」ということです。一匹の羊が当時どれくらいの値段だったのかは分かりませんが、しかし大事な財産であることは間違いないでしょう。また、二つ目のたとえ話に出てくるドラクメ銀貨一枚というのは、一デナリオン、つまり一人の労働者の一日分の賃金に当たる金額です。この銀貨一枚をなくすことは、一日の働きを無駄にすることになるのです。そういう価値のあるものを見失ったら、私たちも必死になって探し回るでしょう。見つからないと大損だからです。主イエスがこの二つのたとえ話で、「あなたがたも当然そう思うはずだ」と言っておられるのはそのことなのです。主イエスは、誰の中にも当然あるこの思いに目を向けさせることによって、「神様も同じお気持ちなのだ」ということを示そうとしておられます。神様も同じように、ご自分の大切なものが失われていくのを放っておくことはできず、探しに来て、見つけ出し、ご自分のもとに取り戻そうとなさるのです。

 このたとえ話がなされている場には、ファリサイ派や律法学者たちもおりました。彼らは、自分たちは徴税人や罪人たちとは違って神様に従って生きている、と思っています。しかし、主イエスのそのみ言葉に聞く耳を持たない彼らもまた、神様のもとから失われている羊なのです。徴税人や罪人たちと、ファリサイ派や律法学者たちは、現れ方は違うけれども、どちらも、神様の群れから迷い出てしまった羊である私たちの姿を描き出しているのです。そしてこのたとえ話が語っているのは、そのような迷い出た羊である私たち一人一人のことを、神様が、ご自分のものとして大切に思ってくださり、捜しに来て、見つけ出し、ご自分のもとに取り戻そうとしてくださるのだ、ということです。神様はそのために、ご自分の独り子をこの世に遣わしてくださいました。神様の独り子イエス・キリストが、迷子になってしまっている私たちを捜し出し、見つけ出して神様のもとに連れ帰ってくださるまことの羊飼いとして、人間となってこの世に生まれてくださったのです。

    しかしそれは同時に、私たちに対する問いかけでもあります。つまり私たちは、あの徴税人や罪人たちのように、主イエスのもとにその話を聞こうとして近寄って行くのか、それともあのファリサイ派や律法学者たちのように、自分たちの罪を認めず、主イエスに聞く耳を持たないでいるのか、という問いです。徴税人や罪人たちと共に、自分の罪を認めて主イエスのもとに集い、神の国の福音を告げるそのみ言葉を受け入れることによってこそ、私たちは主イエスが招いてくださる神の国の食卓にあずかることができるのです。それこそが、「悔い改める」ということです。しかし、そもそも私たちは、自分で悔い改めて神様のもとに立ち帰り、救いにあずかることが困難なのではないでしょうか。それでも、神様はそのような私たちをご自分の大切なものとして愛してくださっています。なんとかして私たちを滅びの穴から救い出したいと思っておられます。そのみ心によって、神様のほうから、私たちを探しに来てくださるのです。そのために、独り子イエス・キリストがこの世に来てくださり、十字架にかかって死んでくださったのです。イエス・キリストのご生涯、特にその十字架の死と復活において、神様が私たちのことを必死に探し回り、ようやく見つけ出し、連れ帰ってくださるというみ心が具体的に表されております。私たちは、この主イエスのご生涯に表されている神様のみ心を知ることによって自分の罪に気づかされ、このみ心に支えられて、主イエスのもとに来てその救いにあずかることができます。つまり悔い改めることができるのです。

 そしてこれら二つのたとえ話の最後に、「喜び」ということが語られております。見失った羊を見つけ出した羊飼いは、「喜んでその羊を担いで、家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて、『見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください』と言うであろう」とあります。また無くした銀貨を見つけた女性も、「友達や近所の女たちを呼び集めて、『無くした銀貨を見つけましたから、一緒に喜んでください』と言うであろう」とあります。失われていた大切なものを見出した人は、大いに喜ぶのです。ここに語られているのは、失われた羊を見出した羊飼いの、ドラクメ銀貨を持っていた女性つまり神様の喜びです。私たちが悔い改めて神様のみもとに立ち帰ることを、神様ご自身が誰よりも喜んでくださるのです。罪人の悔い改めにおける神様ご自身の喜びこそが、この15章の三つのたとえ話を貫いている中心主題と言えるのです。

 私たちは主イエスによって、神様の大いなる喜びへと招かれています。主イエス・キリストが人間となってこの世に来てくださり、十字架にかかって死んでくださったことによって、神様のもとから失われ、迷い出てしまっている私たちを捜し出し、連れ戻してくださる、その恵みが自分に与えられていることを受け入れ、悔い改めて主イエスの救いにあずかり、主イエスが同じように招いてくださっている兄弟姉妹とその喜びを分かち合っていくなら、私たちも神の大いなる喜びにあずかることができるのです。

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