2022.9.4 聖霊降臨節第14主日礼拝
申命記 第30章15〜20節
フィレモンへの手紙 第8〜10節、12〜17節
ルカによる福音書 第14章25〜35節
                          

「主イエスの弟子であること」

 本日は、ルカによる福音書を中心に御言葉に聴いてまいりましょう。

 きょうの聖書箇所に、イエス・キリストがエルサレムに向かうその旅の途中、イエス・キリストと弟子たちの一行に大勢の群衆がついてきたとあります。その群衆に向かって、イエス・キリストは、お話をなさったのです。26節に「もし、だれかがわたしのもとに来るとしても、父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない。」とあります。このきょうの聖書箇所の25節から35節の中で、「わたしの弟子ではありえない」という言葉が、3ヶ所も出てきます。この3回も出てくる言葉。「わたしの弟子ではありえない」という言葉がここに3回も出てくるということは、イエス・キリストがわたしたちに伝えたかった最も大切なことは、わたしの弟子であるとはどういうことなのかということだと考えていいと思います。

 わたしたちは、イエス・キリストを信じる者として、キリスト信者ですけれども、聖書の教えでは、それはキリストの弟子である、ということを意味いたします。それはどういうことか。それを具体的に、主イエスはお示しになっている。26節ですけれども、自分の肉親、兄弟、父母、そしてさらに自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではあり得ない、と主イエスはおっしゃっている。一見しますとこれは大変厳しい御言葉です。わたしたちは、わたしにはとてもこのようなことはできないというふうに思ってしまいます。この憎むということですが、これはどういうことなのか。肉親を憎むということはいかなることなのか。結論的に申し上げますならば、憎むというのは、より少なく愛するという意味です。この憎むという言い方は、これは当時のユダヤにおきまして、比較して、何かを言おうとするときに、こういう相対する極端な言葉を並べて、表現することがありました。愛する反対語は憎むということですが、より少なく愛するということを表現するためにこの憎むという言葉を持ってきてるわけです。

 ここで言われているのは、誰よりもイエス・キリストを救い主として愛するか、ということがイエス・キリストから問われているのです。イエス・キリストの弟子として生きるのであれば、誰よりもイエス・キリストを愛し、大切にしなければならない。ということがここで求められているのです。しかし、だからといって、わたしたちが家族を愛さなくていいということではありません。もちろん家族、肉親を愛することは当然のことです。しかし、往々にしてわたしたちは、イエス・キリストを信じている、愛していると言いながら、どこか脇の方にイエス・キリストを置いてしまっていることはないだろうかということです。イエス・キリストこそわたしたちの救い主であり、イエス・キリストをわたしたちの心の中心に置いておく。そのことが、求められているということなのです。

 さらに自分の十字架を背負って、ついてくるものでなければ、誰であれわたしの弟子ではありえないと主はおっしゃいます。自分の十字架を背負ってついて来なさい、とイエス・キリストは聖書の各所で述べておられます。自分の十字架とは何でしょうか。ここで特に言われておりますのは、イエス・キリストに従う、聖書の教えに従って生きるときに、わたしたちが感じる困難ということがわたしたちの十字架であるとここで特に考えられています。聖書の教え、様々な戒めがありますけれども、それを信じて、この日本という国で生きようとするときに様々な困難な状況に置かれます。信者が全人口の1%にも満たないこの日本において、聖書の教えを信じてそれを実行していく。そのときに、様々な困難な状況がある。わたしたちの信仰を失わせようとする様々な誘惑もあります。目に見えない神様を信じるよりも、結局頼りになるのは、お金だ、財産だと考えてしまう。実際にわたしたちを助けてくれる頼りになる人、知人や友人の方が、見えない神様よりも、結局はなんだかんだ言っても頼りになる、大切なのではないかと、考えてしまう。それらのことは、わたしたちにとっては、大きな誘惑です。わたしたちの信仰を失わせようとする悪魔のささやき、サタンの誘惑と言っていいと思います。そういう誘惑にわたしたちはいつも取り囲まれている。わたしたちはそういう誘惑と戦っていかなければならない。信仰の戦いを、戦い抜いていかなければならないのです。そのことを指してイエス・キリストは自分の十字架と言っておられます。そういう自分の十字架を背負ってわたしの後についてくる者でなければ、わたしの弟子ではありえないと主はおっしゃっている。

 わたしたちがキリストの弟子として生きるというとき、それはなかなか厳しい道でありますが、イエス・キリストは、わたしたちに救いの御手を伸べてくださいます。わたしたちが担う十字架、その十字架はわたしたちだけが背負うものではない。イエス・キリストも共に担ってくださるのだということなのです。マタイよる福音書の11章28節から30節には次のようにあります。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」

 わたしたちがこの人生を、自分の十字架を背負って歩いていく道、この道の先には、終わりの日にわたしたちに復活の命が与えられて、永遠の命に至る道が続いています。そして、その道は主イエス・キリストがわたしたちの十字架を共に担って歩んでくださる道です。そのことを確信して、わたしたちはこの困難なことが多い、苦しい悩みの多いこの人生を、希望を持って歩んでいくことができるのです。わたしたちはそのことをしっかりと心に留め、感謝して、歩むものとなれるように、いつも祈ってまいりましょう。

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