2022.8.21 聖霊降臨節第12主日礼拝
イザヤ書 66章18〜21節
ヘブライ人への手紙 第12章5〜7節、11〜13節 
ルカによる福音書 第13章22〜30節
                          

「救われる者は少ないのか」

 本日は、ルカによる福音書を中心に御言葉に聴いてまいりましょう。

 主イエス・キリストと弟子の一行はエルサレムまでの旅をしておられましたが、その旅の途中で主イエスに向かって一人の人が質問をいたしました。「主よ、救われる者は少ないのでしょうか」という質問です。イエス・キリストはその質問に対しては、はっきりとはお答えになりませんでしたが、主イエスがおっしゃったのは24節にありますが、「狭い戸口から入るように努めなさい。言っておくが、入ろうとしても入れない人が多いのだ。」ということです。狭い戸口から入る。それは救いにあずかるための門です。そこから入っていけば、神様の救いにあずかることができる。しかしその戸口、扉は狭いのだと、主イエスはおっしゃいます。この「入るように努めなさい。」というこの言葉。「努めなさい」という言葉は、福音書にはここにしか出てこない、珍しい言葉です。パウロの手紙には出てくるのですけれども、この「努めなさい」という言葉。この言葉の意味は、オリンピックなどの競技会で、選手同士が競争して、メダル、賞を得るという意味で使われています。賞を得るために努力をする。競争を戦い抜くということですが、ここでいわれる戦いとは信仰の戦いのことを言います。わたしたちの信仰を失わせようとする様々な誘惑や迫害がこの世にはあります。誘惑とは、目に見えない神様を信じるのではなくて、お金や財産、その他、目に見えるものに依り頼もうとする、そのことをそそのかそうとする誘惑です。わたしたちは常にそのような誘惑にさらされているのです。わたしたちの信仰はいつもそのように、サタンからの戦いを挑まれている。わたしたちは、神を信じて生きようとするときに、この世における迫害やサタンの誘惑との戦いをしていかなければならないのです。それがここで言われております努める、努力するということです。

 しかし、その努力ですけれども、それはいつまでも猶予があるのではなくて、ここにタイムリミットがあるのだと次の箇所で、たとえばなしで主イエスはおっしゃっています。25節です。「家の主人が立ち上がって、戸を閉めてしまってからでは、あなたがたが外に立って戸をたたき、『御主人様、開けてください』と言っても、『お前たちがどこの者か知らない』という答えが返ってくるだけである。」と主はおっしゃっています。これは何をたとえているのでしょうか。この家の主人というのは神様のことです。その主人が、その戸を閉めてしまう。その時が来る。その戸を閉めてしまってからでは、その救いにあずかる入り口から入ることができなくなってしまうのだと主イエスはおっしゃるのです。ではその扉が閉まってしまうときとは、どういうときなのでしょうか。

 聖書では、いつかこの世の終わりが来て、神様の右の座におられるイエス・キリストがもう一度この世に来られる日が来る。それを終末と呼んでおりますが、そのときが来るのです。そのときに、天と地は滅ぼされてこの世が終わり、新しい天と地が作られる、その日がいつか来ると聖書では教えられています。そのときが救いの扉が閉じられるときだというのです。しかし、終末の日がいつ来るのか、わたしたちはわからない。思いがけないときに、やってくる。いつ来てもいいように目を覚ましていなさいと、主イエスはおっしゃっています。その戸が、その扉が閉まってしまうときがいつかはわからないが必ず来る。だから、わたしたちはのんびりとしていられないのです。わたしたちは救いを求めて熱心に努力しなければなりません。しかもそれは、今から始めなければいけない。なぜなら、先ほど申し上げましたように、扉が閉じられてしまう。そのときがいつやってくるかわからないからです。

 ある人が、この狭い戸口という言葉を、十字架のことだと言った人がいます。聖書の各所で「わたしについていきたいものは、自分を捨て、日々自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」とおっしゃっていると記されています。例えばルカによる福音書14章27節では、「自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、だれであれ、わたしの弟子ではありえない。」とおっしゃっています。これは、先ほど申し上げました、信仰の戦いということそのものです。この世の迫害や、わたしたちの信仰をなくそうとするサタンの誘惑に負けずに戦っていくその信仰の戦いが、自分の十字架を背負って、イエス・キリストの御跡に従っていくということなのです。それも、すぐにわたしたちは始めなければならない。そのことをイエス・キリストは強くわたしたちに促しておられます。しかし、それはわたしたちの義務ということではなくて、神様の、わたしたちに対する救いへの招きということです。この救いに至る道に通じるこの扉は、狭いのですけれども、誰に対しても開かれています。主は、あなた方はそこから入りなさいと招いてくださっています。その招きにわたしたちはしっかりと答えたいと思います。

 わたしたちの背負う十字架は、わたしたちがわたしたちだけで背負うのではありません。イエス・キリストが、一緒に担ってくださるのです(マタイによる福音書11章28〜30節)。主が軛(くびき)を共に担って救いの道を歩んでくださっている。その救いの道の行く先には、終わりの日に主イエスがこの世に来てくださり、新しい天と新しい地を作ってくださり、先に召された人たちと共に、復活の命、永遠の命を与えられて生きる大いなる希望に満ちた世界が広がっています。そのことを信じて生きるときに、わたしたちはこの世で様々な苦しみ、悩み、悲しみがあるのですけれども、希望を持って生きることができるのです。そのことを信じて、希望を持って、歩んでいけるように、これからもひたすら祈り求めてまいりたいと思うのです。

           閉じる