2022.8.7 聖霊降臨節第10主日礼拝
創世記 第15章1〜5節
ヘブライ人への手紙 第11章1〜3節,8〜16節
ルカによる福音書 第12章35〜48節
                          

「目覚めていること」

 聖書の教えでは、復活の主が再びこの世に来られるということを大切な事柄としています。わたしたちの信仰生活、神を信じて生きる人生において、終わりの日にイエス・キリストが再び来られるということは、キリスト教信仰、聖書の教えの中心の一つです。この主イエス・キリストが再びこの世に来られること。そのことを信じずに、わたしたちの信仰は成り立ちません。そのことを信じることなしに、わたしたちの救いはあり得ない、と言っても過言ではありません。そのいつか必ず来ると言われる終わりの日、イエス・キリストが再び来られる日に備えて、わたしたちがどのように生きれば良いのかということがここで今日の聖書のところで示されております。そのことが、わたしたちがキリストを信じて生きるということの中身といいますか、中心であると言っても過言ではないのです。

 きょうの最初のところで、イエス・キリストが弟子たちにおっしゃいます。「腰に帯を締め、ともし火をともしていなさい。主人が婚宴から帰って来て戸をたたくとき、すぐに開けようと待っている人のようにしていなさい。」とあります。腰に帯を締める。しっかりと腰に帯を締めて気を引き締めて、主人がいつ帰ってきてもおかしくないように備えて待っていなさいとあります。主人が婚宴の席に呼ばれて、いつ帰ってくるのかわからない。そのいつ帰ってくるかわからない主人を、僕、召使い、奴隷が待つ。主人がいつ帰ってきてもいいように、奴隷が目を覚まして、腰に帯を締めて、しっかりと準備をしている。いつそのときが来るのかわからない。思いがけないときに主人が帰ってくる。これは主イエス・キリストが、この世に、再び来られるということを例えているのです。

 そこでわたしたちは、不思議に思う箇所があるのに気がつくのですが、37節の後半です。「はっきり言っておくが、主人は帯を締めて、この僕たちを食事の席に着かせ、そばに来て給仕してくれる。」とあります。「そばに来て給仕してくれる」というのは、本来であれば僕、召使の役目のはずです。それが逆に主人が僕たちを食事の席につかせ、給仕してくれるとあります。これは全く逆のことです。わたしたちはこのイエス・キリストの御言葉を大変奇妙に思うわけです。これは何をわたしたちに示しているのでしょうか。これは終わりの日の希望ということがここで取り上げられているのです。この世の終わりが来る。その有様は具体的にどうなのかということは、わたしたちにはわかりません。大地震が起きたり、津波が、大きな災害が起きて終わるのか。その具体的な有様は、わたしたちにははっきりとわからないのです。そのようなことを考えると、非常に絶望的な状況の中でこの終わりの日を迎えるのかと思ってしまいますけれども、このところ見ますと、実はそうではないということがわかります。わたしたちの救い主であられるイエス・キリストがわたしたちのために、給仕してくれるということなのです。イエス・キリストは、高いところからわたしたちを見下ろして教えをのべられるというような御方ではありません。わたしたちのところに降りてきてくださって、足を洗ってくださる御方。終わりの日には、ご自身がそばに来てくださって、食卓の給仕をしてくださる御方ということなのです。そこまで、イエス・キリストはわたしたちのためにへりくだってくださいます。そのことを究極の姿で示してくださっているのが、イエス・キリストの十字架なのです。罪深いわたしたちの救いのために、わたしたちが罪赦されるために、十字架にかかってくださった。そのようにして、わたしたちのために徹底的にへりくだられて十字架にかかってくださった。そのことが、究極的な姿でこの十字架によって表されております。

 必ず来ると約束されている終わりの日。それは、救いの完成のときでもあります。神の国が終わりの日に完成される。神の救いが終わりの日に完成されるのです。その日に、イエス・キリストがこの世に来られて、わたしたちのために給仕をしてくださる。わたしたちのために食卓を備えてくださる。そのような喜ばしい出来事が起こると約束されています。わたしたちはこの後、聖餐にあずかりますけれども、この聖餐というのは、終わりの日にあずかる食卓。それをあらかじめ告げ知らせるものであると言われています。神の国の食卓。それを目に見える形で、わたしたちがあずかることができるのです。

 わたしたちが生きているこの世には、様々な苦しみや悲しみがある。楽しいことばかりではない。むしろ、悲しみ、苦しいことのほうが多い。身の回りを見ても、そして日々、わたしたちが目にする世界の出来事、ニュースなどによって、この世界は大きな悲しみ、苦しみに満ちているということが、わたしたちには日々感じられるのです。この世は闇の中にあるようにも見えます。しかし、使徒パウロは、第一テサロニケの信徒へ手紙の中で、わたしたちは光の子、昼の子なのだと語っています。この暗闇のように見えるこの世の中でも、わたしたちは光の子とをされています。そのような中にあっても、わたしたちはともし火を灯して、主イエスが来られるのを待ち望む。その生き方が求められています。目を覚ましていなさい、というのはそういうことです。しかし、わたしたちは弱い者なので、いつも眠りこけてしまいそうになる。わたしたちには終わりの日に、救いの完成という希望が与えられています。神の国の食卓が用意されているのです。その食卓には、主イエス・キリストがわたしたちのために給仕をしてくださる。それが主イエス・キリストがこの世に帰って来てくださるという希望です。

 苦しみ、悲しみの多い世に生きているわたしたちですが、わたしたちには終末の救いの希望が与えられています。そのことを信じるときに、わたしたちはこの暗闇のように見える世の中でも、希望を持って目を覚ましていることができるのです。それがわたしたちのこの辛い苦しいことの多い世の中での、わたしたちの生きる力、励まし、慰めとなるのです。

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